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『無職転生』論~ヒトガミと物語の呪縛  作者: 深海周二


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第11回 もしかして……不倫?

※本連載は、『無職転生』の原作完結までの筋に言及する。


屋根を支える柱の影が、テラスの角を二等分している。家の周囲にはバナナの木が並び、窓からは植えられた木々の列まで見通せる。家の間取りや柱の影がこれほど細かく書かれると、不動産屋から渡された物件の説明を読んでいるような気になってくる。


ところが、これは1957年に刊行されたフランスの小説『嫉妬』の冒頭である。作者はアラン・ロブ=グリエ。家にいる女性はA…と呼ばれ、夕食には近隣の農園に住むフランクという男が訪れる。フランクの妻クリスティアーヌは、体調の悪い子どもの世話などで同行しない。


テラスには四脚の椅子があり、A…とフランクは隣り合って座る。折りたたみ式の椅子が一脚、使われずに残され、食卓には三人分の食器が並ぶ。小説は椅子や皿の配置を詳しく書くのに、その場にいる人々が何を考えているのかは、なかなか教えてくれない。


ここで読者は、つい人間関係を考える。フランクは妻を連れずによその家で食事をしている。A…とフランクの距離は近い。二人はただ親しいだけなのか。それとも、何か隠しているのか。


普通の恋愛小説なら、たとえば「夫は二人の親密さに嫉妬した」という一文が入るだろう。そう書かれれば、誰が何を見て、どう感じたかが決まる。読者は夫の気持ちを知ったうえで、夫がこれから何をするのかを追えばよい。


『嫉妬』は、その説明をくれない。驚くべきことに、二人を見ているのが嫉妬する夫なのかどうかさえ、本文から簡単には確定できない。椅子の脚や食器の置き方のほうが、夫の人柄よりはるかに詳しいのである。


それでも、多くの読者は、姿の見えない夫が妻と隣人を監視している小説として読むだろう。そう読むと、説明のつかない観察にも、理由が生まれる。あまりに細かく二人を見ているのは嫉妬しているからだ、というわけだ。


実際、出版元の初版の紹介文も、語り手を妻を監視する夫として説明している。出版社がそう言うのだから、夫はいるのだろうと思いたくなる。だが、出版元による紹介と、小説本文に書かれたことは同じではない。


ここは、順番を分けて考えたい。二人が隣り合って座ったことは、文章を読めば確かめられる。「二人には秘密の関係がある」は、その配置を見た人の推理である。さらに「秘密を疑っている夫が二人を見張っている」と考えたとき、読者は、推理に合わせてもう一人の人物の心理まで作っている。


夫が嫉妬していると考えれば、椅子の並びは「不倫を疑う証拠」に変わる。しかし、椅子そのものは、そこに誰が座っているか以上のことを語らない。隣り合って座った二人が愛人同士なのか、食事をしに来た隣人同士なのかを、椅子に尋ねても答えは返ってこない。


広島大学の中川正弘は『嫉妬』を論じた研究で、語り手を嫉妬する夫という人物に結びつける読み方を問い直している。ここで区別しなければならないのは、「誰かがこの光景を見ているように書かれている」ということと、「その誰かは嫉妬する夫である」ということだ。後者は前者から考えられる筋の一つだが、同じ事実ではない。


小説には、壁に潰されたムカデの痕も現れる。痕がいつできたのかさえ、記述を追うほど簡単には定まらない。別の箇所では、閉じたブラインドの向こうの足音や、赤みを帯びた液体が問題になる。誰の足音なのか。あれは血なのか。読者は気になるが、気になっただけでは答えにならない。


小説を読み慣れた人ほど、繰り返し出てくるものを「伏線」だと考えたくなる。ムカデの痕が何度も書かれるのだから、後で何かの事件につながるに違いない、と。しかし、伏線だと思うことと、その後の出来事によって伏線だったと確かめられることも、別である。


『嫉妬』のフランス語の題名には、人を妬む感情のほかに、窓に取り付けるブラインドという意味がある。細長い板を並べた日よけで、傾ければ向こうが見え、閉じれば見えなくなるものだ。見えているものが少ないほど、読者は、その向こうに隠された出来事を探そうとする。


ここに、この小説の仕掛けがある。作者が「夫は嫉妬した」と書かなくても、読者はA…とフランクの関係を疑い、夫がいるはずだと考え、見えない夫の心理まで想像する。つまり、嫉妬する夫の心を読まされているのではなく、読者のほうが嫉妬する夫のように二人を疑い始めるのである。


中川の研究も、読者がその役を引き受けるという読みを示している。もちろん、すべての読者が同じ推理をするわけではない。重要なのは、作品が夫の心を説明しなくても、読む人が自分で夫という人物とその筋を作り上げられることだ。


これを『無職転生』のような小説と比べると、違いが分かりやすい。ルーデウスがエリスに去られ、深く傷つき、前世の引きこもりを思い出すとき、読者は、なぜ傷ついたのかを知っている。出来事があり、本人の気持ちが語られ、その後の行動につながっていく。読者はルーデウスの人生を、前世の後悔を抱えた男が本気で生き直す筋として追うことができる。


ところが『嫉妬』は、同じやり方で人物を説明してくれない。読者は、用意された筋をたどる代わりに、椅子の数や人の動きから筋を組み立て始める。それでも組み立てた筋が正しいかどうか、作品は最後まで簡単には保証してくれない。


こうした書き方を試みた作家たちが、1950年代のフランスで注目された。ヌーボーロマン、直訳すれば「新しい小説」と呼ばれる。難しい名前だが、ここで必要なのは文学史の暗記ではない。小説では普通、人物に名前や性格があり、何かを望み、困難に遭い、行動して、その結果を迎える。そうやって読めるようにすること自体を、疑ってみたのである。


ただし、ヌーボーロマンの作家全員が、同じ決まりに従って小説を書いたわけではない。ナタリー・サロートは『不信の時代』で、よくできた人物紹介さえあれば読者がその人物を信じてくれる、という従来の小説の前提を問い直した。ロブ=グリエも『新しい小説のために』で、作家たちを一つの学派としてまとめることを避けている。


ロブ=グリエの考えを、『嫉妬』の椅子に戻して考えてみよう。二人の椅子が並んでいるということと、二人が不倫をしているということは違う。前者は目に見える配置であり、後者はその配置に人が与えた意味である。二人が隣り合っているというだけでは、その光景を見た誰かが苦しんでいるとは決められない。


ロブ=グリエは、人間の気持ちに合わせて世界が意味を持っているわけではない、と考えた。世界は「人生にとって意味のある出来事」だけを並べてくれる舞台ではない。柱の影が伸び、椅子が置かれ、ムカデの痕が残っている。そこから何かを読み取る人がいても、読み取った意味が最初から物の側に刻まれていたとは限らない。


この考えを、私たちが物語を読むときの癖に引き寄せてみよう。人は出来事を見れば、何かのために起きたはずだと考えたがる。良いことが起これば努力へのご褒美、悪いことが起これば過去の失敗への罰、といった具合である。だが、世界の出来事が最初から、人間に報酬や罰を与えるために用意されているわけではない。


これは、何をしても意味がないという主張ではない。フランクが夕食に来たのにも理由はあるだろうし、ムカデの痕にも、ムカデが潰されたという原因がある。問題は、出来事に原因があることと、その出来事が誰かの人生を説明する役を初めから持っていることを、同じにしてよいのかという点である。


『無職転生』なら、前世の男を轢いたトラックが分かりやすい。男は道路で高校生を助けようとして事故に遭い、死んだ。事故が起きたことには原因があるし、男が死んだ痛ましさも消えない。だが、そのトラックが、二十年近く引きこもった男に人生をやり直させるために走っていたわけではない。


トラック事故が「異世界で本気になるための入口」になったのは、そのあと男がルーデウスとして生まれ、前世を悔やみながら生きたからである。事故のときにはなかった役が、あとから続いた人生の筋によって与えられた。物語が出来事に役を与えるとは、こういうことである。


ヒトガミにも、よく似たことが起きる。ルーデウスの夢に現れるこの神は、最初は怪しい相手だった。助言がルイジェルドとの出会いにつながり、役に立ったと分かれば、今度は頼れる導き手になる。ところが未来から来た老いたルーデウスの日記を読み、ヒトガミの狙いを知ると、同じ助言が陰謀の一部として読み直される。


助言を聞いた当時と、あとになってその助言を思い出すときでは、神に与えられる役が違う。ただし、これは神の行為がすべて無意味だったとか、陰謀が読者の思い込みにすぎないという話ではない。ヒトガミには未来の敗北を恐れる理由があり、ルーデウスの家族を害そうとする目的もあった。後から明らかになった事実によって、以前の判断を変えることには根拠がある。


それでも、事実を知ることと、相手のすべてを「自分の人生にとっての黒幕」という役で説明することは違う。ルーデウスが知ったのは、ヒトガミの行為と目的の一部である。そこから、ルーデウスの人生に起こった不幸を背負う「倒すべき敵」という役を与えるのが、物語による位置付けである。


私はヒトガミを「無色」と読んできた。どの関係にも属さず、どの価値にも染まっていない、という意味である。ただし、誰とも接触しないという意味ではない。誰かの父や夫として生き、失敗を悔やみ、それを克服して「まともな人生」に近づいていく――人をそんな役と物差しに当てはめる関係の外にいる、という私の解釈である。さらに、課題と克服の筋の外にいるという意味で、「脱物語」の象徴とも呼んだ。


もちろん、それも私がヒトガミに与えた役である。ここで『嫉妬』との違いが重要になる。『嫉妬』の読者は、書かれていない夫の心理を組み立てる。『無職転生』の読者は、実際に行動し、動機も語るヒトガミを、ルーデウスの人生の筋の中で理解する。同じことではない。共通するのは、人物や出来事を知ることと、その人を自分の筋に必要な役として位置付けることは別だという一点である。


ここまで来ると、私が考えてきた「位置付けを疑い続ければ、いわゆる作品は成り立たない」という主張にも、厄介な問題が現れる。『嫉妬』は、人物の心理や出来事の意味を一つに決めることを拒みながら、現に小説として読まれているからだ。作品が成り立たないと言い切れば、この小説を前にして説明がつかない。


しかし、何も変わらなかったわけではない。筋のはっきりした小説では、作者が人物の目的や行動の理由を示し、読者はその筋をたどることができる。『嫉妬』では、読者が筋を作っても、作品がそれを正解として認めてくれるとは限らない。人物の人生を、一つの課題とその克服にまとめて納得しようとしても、その読み方が正しいという保証を作品から受け取れないのである。


だからといって、物語の呪縛が消えたと安心するのも早い。作者が説明を減らせば、読者のほうが説明を始める。夫が嫉妬したと書いていないからこそ、読者は嫉妬の理由を探し、誰が裏切ったのか、何が起きたのかと問い続ける。人物を筋に組み込みたがる力は、作者の筆が止まっても働くのである。


では、そこから逃れられないのか。少なくとも『嫉妬』は、読者が作った筋を、作品が必ず引き受けなければならないわけではないことを示している。読む側が夫を作り、嫉妬を作り、不貞の疑いを作っても、それが書かれた事実と同じになるわけではない。


テラスに四脚の椅子を置いたのは作者である。その一つに「嫉妬する夫」という名札を置いたのは、出版社の紹介文であり、読んでいる私たちかもしれない。座る人を決めたつもりになっても、名札の下の椅子は椅子のままである。


厄介なのは、いったん名札を置くと、最初からそこに名前が書いてあったように思えてしまうことだ。『嫉妬』が疑わせるのは、夫の正体だけではない。人を理解したつもりになったとき、私たちがその人に与えた役のことまで、忘れてしまうという習慣なのである。


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