第10回 語り手は34歳、無職
※本連載は、『無職転生』の原作完結までの筋に言及する。
ヒトガミを、ルーデウスの人生の黒幕として語っているのは誰か。
先に答えを書いておく。語っているのは、ルーデウス自身である。正確に言えば、前世で後悔したまま死んだ34歳の男の記憶を持ち、転生後の人生を重ねたルーデウスである。
『無職転生』は、後悔した男が自分の二度目の人生を語る物語である。作品の中心をなす語りでは、ほかの人物も、ルーデウスの目で役を割り振られる。ヒトガミも例外ではない。
答えの根拠は、アニメを見るとよく分かる。
アニメのルーデウスには、声が二つある。ルーデウスが口にする台詞と、心の声は、別々の声優が演じている。心の声を演じているのは、冒頭でトラックに轢かれて死ぬ前世の男を演じた声優である。
画面に映るのは、母に抱かれる赤子である。ところが、赤子の頭の中で聞こえるのは、34歳の男の声だ。男の声は、母の顔立ちや父の剣の腕前について、赤子の年齢では言えない言葉で感想を述べ、ときに茶化す。
映画のDVDには、監督が本編の映像に合わせて撮影の裏話を語る、オーディオコメンタリーが収められていることがある。『無職転生』のアニメは、前世の男のコメンタリー付きで少年の人生を見せる作品である。しかも、コメンタリーを切るボタンはどこにもない。
原作にも同じ仕組みがある。原作は、ルーデウスの一人称を中心に語られる。エリスら別の人物の視点で書かれる間話もあるが、物語の本筋では、読者が知る出来事の多くは、ルーデウスが経験し、あるいは人から聞いて語った出来事である。
では、語り手はどんな男なのか。経歴を確かめておく。
男は34歳、無職。高校時代にいじめられたのをきっかけに、20年近く家に引きこもっていた。両親が死に、葬儀の日に兄弟から家を追い出され、無一文で街をさまよいながら自分の人生を悔やむ。
悔やんだ直後、男はトラックに轢かれそうな高校生を見つけ、助けようとして轢かれて死ぬ。
大事なのは、20年を過ごす最中の男が、その20年を語っているのではないことである。20年を振り返って悔やんだ男が、転生後の経験を重ねて語り手になった。
だから、語りは前世への後悔を出発点とする。前世の20年はやり直すべき失敗として語られ、今世の出来事は、失敗をやり直していく過程として語られる。ただし、今世での経験が、語り手の判断を変えることもある。
皮肉なのは、男の20年である。引きこもっていたあいだの男の毎日は、あとから人生の筋にまとめようとすると、語るべきことがないように見えてしまう。昔の知り合いに「この20年、何をしてた?」と聞かれたら、男は「特に何も」と答えたかもしれない。
その男が、死んだあとで、書籍版で全26巻に及ぶ物語を語った。「特に何も」と答えたかもしれない20年は、全26巻の物語の前置きになったのである。
語り手が何をしているのかは、結婚式の「生い立ちムービー」を思い浮かべると分かりやすい。新郎新婦の幼いころの写真が順に映され、一枚ごとに字幕が付く。「泣き虫だった幼稚園時代」「部活に打ち込んだ高校時代」「大学のサークルで、二人は知り合った」。
写真は何十年分もあるのに、選ばれるのは十数枚である。しかも字幕は、どの写真にも、今日の結婚式へ向かう一歩という役を割り振る。泣き虫だった写真は、頼もしくなった今日の新郎の前振りとして映される。
写真の中の幼い新郎は、字幕に異を唱えられない。字幕を書いたのは、結婚式の当日から過去を振り返った新郎新婦だからである。
この連載では、他人または語り手が、ある人を物語の登場人物として解釈することを「位置付け」と呼んでいる。生い立ちムービーの字幕は、位置付けのいちばん身近な例である。『無職転生』の語り手は、字幕を書く新郎新婦と同じ席に座っている。
作中で、語り手の字幕をいちばん多く書き替えられた人物が、ヒトガミである。
ヒトガミは、全身が白くモザイクのかかった姿の神で、ルーデウスの夢に現れて助言を告げる。初めて会ったとき、語り手はヒトガミを怪しい者として語る。助言に従ったルーデウスが窮地を逃れると、ヒトガミは導き手として語られる。
物語の後半、ルーデウスは、未来から戻ってきた老いた自分の日記を読む。日記には、ヒトガミに騙されたことを発端に、妻たちを失った未来が書かれていた。やがて龍神オルステッドからもヒトガミの狙いを聞かされ、同じ助言が陰謀として語り直されて、ヒトガミは黒幕になる。
怪しい者、導き手、黒幕。字幕は三度書き替えられた。助言の裏にあった狙いが明らかになり、ルーデウスが知る事実も変わった。それでも、ヒトガミをルーデウスの人生の筋の登場人物として扱う点は、一度も変わっていない。
字幕を書き替えるきっかけになった記録にも、目を向けておきたい。老いたルーデウスの日記は、別の未来を生きたルーデウス自身が一人称で書いた記録である。オルステッドの説明は、ルーデウスとは別の人物による証言である。ただし、原作の読者は、そのどちらも若いルーデウスの語りを通して受け取る。
語り手の誤りを正した材料の一つは、同じ男の、別の未来の語りだったのである。
ヒトガミの側から、ルーデウスの語りを疑う手がかりは限られている。ヒトガミはルーデウス以外の者の夢にも現れるが、ルーデウスが夢の中で何を言われたかを、その場で見届けた第三者はいない。別の人物がヒトガミについて証言しても、個々の夢の会話まで照らし合わせることは難しい。
ヒトガミが助言の理由を問われて答えた「君が生きていると面白そうだから」という一言も、私たちが読んでいるのは、語り手が書き留めた一言である。顔のモザイクにしても、ヒトガミの顔にかかっているのか、語り手の目にかかっているのか、読者には確かめる手立てがない。ただし、アニメのモザイクまでルーデウスの視覚をそのまま再現したものとは断定できない。
ここで、限界を二つに分けておきたい。
一つ目は、物語という形式の限界である。人は他人を見るとき、他人の過去と現在を筋の形にまとめて理解することがある。前世の男を家から追い出した兄弟も、男の20年を、立ち直れなかった身内の20年として見ていたはずだ。
本人がどれほど課題と克服の筋で自分を理解せずに生きていても、周りの者は筋を書く。ヒトガミが本当に課題と克服の枠組みの外にいる神だったとしても、ヒトガミについて語る者がいる以上、ヒトガミは誰かの筋の登場人物として位置付けられうる。
作中で、位置付けから最も遠いところにいるように見える人物がいる。前世の男を轢いたトラックの運転手である。運転手は、名前も顔も語られない。
運転手の人生が語り手の筋に組み込まれなかったのは、語り手が運転手についてほとんど何も語らなかったからである。だが、運転手も転生の発端となる事故を起こすという役は与えられている。語られないことだけで、位置付けを完全に免れられるわけではない。
二つ目は、作品に固有の限界である。『無職転生』には、ルーデウスの誤解を修正する出来事や、別人物の視点もある。だが、ヒトガミに与えられた「倒すべき敵」という役まで疑わせる視点を、読者に十分用意しただろうか。私にはそうは思えない。
一人称の小説がすべて、語り手を信じて読むよう求めるわけではない。語り手の記述がどこかで食い違い、読者が語り手を疑いながら読み進める小説もある。『無職転生』の語り手は字幕を何度も書き替えるが、書き替えるたびに、新しい字幕がそれまでより正しい説明として読者に差し出される。
ヒトガミ自身が、自分の恐れや目的をルーデウスに語る場面はある。けれども本編は、ヒトガミの視点からその人生やルーデウスとの対立を語り続けることはしない。ヒトガミが自分の言葉で自分の字幕を書く機会は、ごく限られているのである。
ヒトガミの悪事は、ヒトガミ自身の行いである。だが、その行いを「倒すべき黒幕」という一つの役にまとめたのは、後悔した男の語りである。
他人を物語の筋にまとめて語るとき、位置付けを避けるのは難しい。これを私は、物語という形式の限界と呼んでいる。ヒトガミへの「倒すべき敵」という位置付けを、最後まで十分には疑わせなかった、と私が考えるのが『無職転生』の限界である。
断っておくが、私は、ルーデウスを語り手の席から降ろせと言いたいのではない。
それに、ヒトガミに字幕を付けてきたのは、私も同じである。この連載で、私はヒトガミを「容疑者」と呼び、「被告人」と呼び、課題と克服の枠組みの外側にいる「脱物語の象徴」と呼んできた。どれも、私が自分の論の筋の中でヒトガミに割り振った役である。
語り手がいるかぎり位置付けが避けられないのなら、登場人物を誰の筋にも割り振らずに書く方法は、ありうるのだろうか。




