第8話:軍律の盾と、仮設便所のスコール
鼻の曲がったデカ鼻の老婆が、グリム童話を引用して「王子様のキス」を期待して赤面しているという、凄まじい精神的奇襲。
しかし、第二十師団・歩兵第七九連隊の佐藤伍長は、卓越した軍人精神によって即座に戦術的防御体制を構築した。彼は新調された完全軍装の背筋をピシッと伸ばし、淹れたてのモーニングコーヒーのカップを厳かに置くと、大真面目な直立不動の姿勢で言い放った。
「報告ッ! 皇軍の戦時服務規律において、出征中の兵士が現地民間職員と口づけ、ならびに男女の交際を行うことは、軍紀の弛緩を招くため厳に禁じられているッ! よってマリー殿の提案された『口づけによる呪詛解除作戦』は、軍律違反につき断固却下である!」
ガチガチの軍律を持ち出した鉄壁の拒絶。
「……うぅ、そんなぁ。せっかくちょっと期待したのに……しょんぼりですぅ……」
黒い服に黒いとんがり帽子のマリーは、お婆さんの顔のまま完全に意気消沈してしまった。彼女は悲しげに引き下がり、気分転換のためか、木の杖を小さくひと振りした。
パッと一瞬だけ白銀の光が走り、黒髪ショートカットの可憐な少女の姿が朝の木漏れ日の中に浮かび上がる。光が収まると、そこにはジャングルの密林に突如として、白く清潔な「魔法の仮設トイレ」が出現していた。マリーは困り顔のまま、その扉を開けて中へと入っていった。
強烈なキスの危機(?)を脱した佐藤伍長は、略帽の帽垂布を撫でながらフゥーと深いため息をつき、手元に残った高級タバコ『ゴールデンバット』にマッチで火をつけた。
紫煙を燻らせ、ようやく訪れた静寂を噛み締めようとした――まさに、その瞬間だった。
「――カーーッ、ペッ!!」
魔法の仮設トイレの薄い壁を透過して、マリーの、お婆さん全開の凄まじくリアルな痰を吐く音がジャングルに響き渡った。佐藤伍長がタバコを咥えたまま硬直した次の瞬間、さらなる地獄が始まった。
バリバリバリバリ! ドササササササササササッッ!!!
それは、昨日体験した米軍戦闘機P—38の爆音か、あるいはニューギニア特有の猛烈なスコールか。否、マリーのデカ鼻の下にある口から放たれた、大量の排泄物が便器にものすごい勢いで叩きつけられる轟音だった。
あまりにも壮大で、遠慮の一切ない排泄の連射音に、佐藤伍長はタバコを咥えたまま完全に呆気に取られた。
だが、真の恐怖は音だけでは終わらなかった。
仮設トイレの隙間から、一九四五年春の灼熱の熱気に乗って、凄まじい密度の気体がじわじわと漂い出してきたのだ。それはマリーが朝に2杯も飲んだコーヒーと、昨夜の魔法のエスカルゴ、そして彼女自身の強力な魔力が胃腸で最悪の化学反応を起こした代物だった。
「……ッッ!? な、何たる毒ガス攻撃だ……!」
佐藤伍長は猛烈に咳き込んだ。
それは、彼がかつていた旭川や内地の兵営の、夏場に何百人もの兵隊が使用したあの不潔な「汲み取り式便所(ボットン便所)」の臭気と、軍馬の厩舎に堆積した濃厚な「馬糞」の悪臭が、絶妙な黄金比率で混じり合った、脳の血管が千切れるほどの凄まじい悪臭だった。佐藤伍長の札幌仕込みの鼻腔は一瞬で大パニックを起こした。
「……臭い、臭すぎる! 皇軍の化学兵器部隊の特殊ガス弾でもこれほどの威力はないぞッ! 誰が……誰がこんなトドのいびきをかき、火山の口臭を放ち、兵営のボットン便所のような大排泄を行うババアと、神聖なる接吻などするかッッ!!(猛烈な拒絶)」
タバコの煙すら完全にかき消す悪臭のドームの中で、佐藤伍長は青光りする坊主頭を押さえ、涙目で悶絶した。
その傍らで、マリーの黒いとんがり帽子から仮設トイレの屋根の上へと命からがら避難したエゾフクロウの『五郎』が、羽をバタつかせながら(だから言ったろ! 早く三八式歩兵銃で射殺しとけば良かったんだよ!)とでも言いたげに、「ホウ! カッ!」と激しく怒りの鳴き声をポートモレスビーの空に響かせるのだった。




