第7話:グリム童話と、殺意のモーニングコーヒー
トドのごとき鼾と、登別温泉の火山ガスに匹敵する硫黄の口臭に耐え続けること数時間。ポートモレスビーの長い夜が、ようやく明けた。
ジャングルの天蓋の隙間から残酷な朝日が差し込み始めると、湿気を含んだ空気は一気に跳ね上がり、辺りはたちまち一九四五年春の容赦ない「灼熱の気温」に包まれ始める。
魔法の偽装蚊帳の中で、黒い服に黒いとんがり帽子を被った老婆――マリー・イシカワは、何一つ知らずに気持ちよさそうに身体を大きく伸ばした。
「ふわぁ……、おはようございます、佐藤伍長さん。よく寝たわ! 朝のモーニングコーヒーでも飲みましょ」
マリーがお婆さんの顔のまま呑気に木の杖を振ると、一瞬だけピカッと白銀の光が走り、黒髪ショートカットの可憐な少女の姿が朝の木漏れ日の中に浮かび上がる。光が収まると、そこには湯気を立てる淹れたての芳醇なモーニングコーヒーが二杯、場違いなほどお洒落なカップに注がれて出現した。
「…………」
新調された完全軍装に、青光りするピカピカの坊主頭。佐藤伍長は、酷いクマの浮き出た凄まじい「寝不足の顔」で、無言のままその淹れたてのコーヒーを啜った。極限のジャングルを生き抜いてきた男だったが、流石に頭がフラフラしており、朝飯などとても食べる気分にはなれなかった。
マリーはコーヒーのカップを片手に、少し不思議そうに佐藤伍長の顔を覗き込んできた。
「佐藤伍長さん、大丈夫ですか? なんだかお顔の色が優れないみたい……」
その言葉に、佐藤伍長は略帽の帽垂布を震わせながら、腹の底から怒りの混じった本音を脳内で絶叫した。
(当たり前だ、このババアッ! 誰かさんのトドの咆哮のごとき鼾と、登別源泉地帯の硫黄ガス攻撃のせいで、本職の脳髄は完全にふらふらである! 貴殿がアタブリンを命がけでお届けしてくれた命の恩人でなかったならば……本職は今すぐ三八式歩兵銃の最後の一発をもって、この老婆を現座で射殺(処刑)しているところだわッッ!!)
軍人としての超人的な自制心でかろうじて引き金を引く衝動を抑え込む佐藤伍長。
そんな伍長の殺意に満ちた内面など露知らず、マリーは2杯目のコーヒーを優雅に飲みながら、お婆さんの顔をぽっと林檎のように赤らめて言った。
「あのね、私、昨日の夜色々考えたんです。伍長さんは、グリム童話の『眠れる森の美女』のお話はご存知ですか? ……お姫様が悪い呪いで眠らされちゃうんだけど、格好いい王子様のキスで、呪いがパッと解けるの。……私のこのお婆さんの呪いも、きっと……そういう、何かで解けるんじゃないかって思うの……」
鼻の曲がったデカ鼻の老婆が、上目遣いで「王子様のキス」を期待して赤面している。
そのあまりにも恐ろしい精神的奇襲に、佐藤伍長は朝日に照らされながら、本当にその場で卒倒するかと思った。
(き、キスだと……!? 本職に、このトドと火山のハイブリッド老婆に口づけを敢行せよという命令かッ!? 米軍の重機関銃の火網に突撃する方が遥かに生存確率が高いわッッ!!)
完全軍装のまま白目を剥きかける佐藤伍長の傍らで、枝にとまったエゾフクロウの『五郎』が、モーニングコーヒーの香りを嗅ぎながら(やめとけって。こいつにキスしたら口臭で一瞬でパプアニューギニアの土に還るぞ)とでも言うかのように、「ホウ、ホウ……」と呆れ果てた鳴き声をジャングルに虚しく響かせるのだった。




