第6話:トドの咆哮、あるいは夜間歩哨の地獄
猫アレルギーという予想だにしない衝撃の真実に大真面目にズッコケた後、佐藤伍長は手元に残った恩賜の煙草を静かに吸い終えた。
日本時間ならもう夜も深い。衣服を完璧な完全軍装に早変わりさせられ、青光りする坊主頭を撫でながら、佐藤伍長は略帽の帽垂布を直して言った。
「マリー殿、そろそろ消灯にしよう。夜間の自活戦において睡眠は貴重な給養である」
伍長が背嚢から、何年も使い古した泥臭い軍用毛布を取り出そうとした、その時だった。
特別民間職員の魔女マリーが、鼻の曲がった老婆の姿のまま、木の杖を小さく振った。
パッと一瞬だけ白銀の光が走り、黒髪ショートカットの可憐な少女の姿が闇に浮かび上がる。光が収まると、そこにはジャングルの泥濘の上とは思えない、白くパリッと糊のきいた、清潔で極上の枕と羽毛布団が敷かれていた。
何年も泥と汗にまみれた硬い地面で寝てきた札幌出身の佐藤伍長は、その純白の寝具の眩しさと実家の布団のような温もりに、目頭が熱くなり、思わず涙が出そうになった。
「実に見事な営内整頓である……。ありがたく使わせてもらう」
佐藤伍長は三八式歩兵銃を抱き抱えるようにして横になり、至福の感覚の中でうとうとと心地よい眠りに落ちかけ――た、その瞬間だった。
「グオオオオオオオオオオオオーーーーッッッ!!! フゴッ、ゴロロロロロロロロ……ッッ!!!」
耳を聾するような、凄まじい地響きのごとき轟音が魔法の蚊帳の中に轟き渡った。
佐藤伍長は戦眼をカッと見開いて跳び起きた。米軍の戦車による夜襲か、あるいは一〇五ミリ榴弾砲の至近弾か。しかし違った。その絶叫のような轟音の正体は、隣で眠るマリーの、あの黒いとんがり帽子の下から覗く「鍵型に大きく曲がった鼻」から放たれる壮大な鼾だったのだ。
「な、なんて鼾だ……! まるで郷土・北海道の海岸に群生する『トド』の咆哮ではないか……! 皇軍歩兵の夜間無声規律を根底から覆す音量だ!」
ガタガタと震える魔法の結界。このままでは、周辺を索敵しているアメ公のパトロールに自分たちの隠れ場所を大声で教えているようなものである。
国家機密漏洩の危機を感じた佐藤伍長は意を決し、匍匐前進の姿勢で近づくと、マリーのデカ鼻を右手でガシッと力任せにつまんだ。
「……フウ。これでやっと、敵軍への音響探知の危機は脱したな」
静寂が戻り、佐藤伍長がホッと胸を撫で下ろしたのも束の間だった。
鼻を塞がれたことで、マリーはお婆さんの顔のまま、今度は口を「はあぁぁ……」と大きく開けて口呼吸を始めた。その瞬間、彼女の口内から、猛烈な濃度の気体が漂い出してきたのだ。
「うっひゃあーーーっっっ!!! な、なんだこの匂いは……!? 硫黄の匂いか!? 登別温泉の源泉地帯、あるいは火山の噴火口に頭を突っ込んだような狂暴な異臭だッ!」
あまりの強烈さに、完全軍装の佐藤伍長は鼻を抑えてのけ反った。白く糊のきいた清潔な布団の上は、一瞬にして硫黄ガスの地獄へと変貌していた。
「ってか、このババア……中身は可憐な女子などではなく、本当の化け物ではないのか……!?」
ピカピカの坊主頭から冷や汗を流しながら、佐藤伍長は猛烈に後悔した。
飢えと虫に怯えながらも、静かに、誰にも邪魔されずに1人でジャングルの泥の中で寝ていた頃が、今や狂おしいほど懐かしかった。
その傍らで、マリーの肩から避難したエゾフクロウの『五郎』が、止まり木の上で(だから言ったろ、こいつの寝相は最悪なんだよ)とでも言いたげに、呆れた顔で「ホウ……」と小さく鳴いた。
結局、佐藤伍長は一睡もすることができず、銃を握り締めたまま「敵前夜間歩哨(見張り任務)」の気分のまま、ただひたすらにポートモレスビーの長い夜が明けるのを耐え続けるのだった。




