第5話:輜重なき前線の「宅急便」
夜のポートモレスビーのジャングル。マリー・イシカワの魔法によって張られた「一等クラスの偽装蚊帳」の内側は、ハマダラカの羽音も届かない、奇跡のように静かで安全な空間だった。
一瞬の魔法によって、髭を剃り上げられ、美しい青光りする坊主頭の「完全軍装」に早変わりさせられた札幌出身の佐藤伍長は、新調された軍衣の襟を正し、蚊帳の中で横になるマリーに向かって、大真面目な口調で問いかけた。
「……マリー殿。本職は先ほどから、貴殿が木の杖で魔法をかける際、その瞬間にだけ一等可憐な少女の姿を視認している。これは、やはりマラリアの重症熱による、我が網膜の幻覚なのだろうか?」
略帽の帽垂布を揺らし、膝の上に魂である三八式歩兵銃を抱いたまま、不器用なほど真剣な目を向ける佐藤伍長。
黒い服に黒いとんがり帽子を被った、鼻の曲がったお婆さんの姿のマリーは、少し恥ずかしそうに、でも健気に答えた。
「ううん……それは幻覚じゃありません、伍長さん。あれが、本当の私なんです」
「……そうか」
佐藤伍長は深く頷き、誰もいない夜の密林で、至極真面目に、かつ無骨な男の誠実さを込めて言った。
「美しい女性だ。もし叶うならば、本職はその本当の姿の貴殿に、是非お会いしたい。そして、一人の男として、ゆっくりとお話しがしたいな」
ジャングルの暗闇の中、少しロマンチックな、静かな空気が流れる。マリーは老婆の顔を少し赤らめながら、ポツリと言った。
「佐藤伍長さんの、目の前にいます」
その瞬間、佐藤伍長は魂が抜けたように呆然とした。次の瞬間、氷点下の札幌の冬を思い出させるような、冷徹な突っ込みが口から飛び出した。
「……は? ただのババアじゃねーか」
あまりの不条理さに頭を抱える佐藤伍長。しかし、生真面目な彼はすぐに表情を戻し、飯盒を傍らに置きながら尋ねた。
「しかし、どうしたらその呪いとやらは解けるのだ。差し支えなければ、貴殿が破ったという『魔女の国の規律』とは、一体何を破ったのかな?」
どれほどの重罪を犯して追放されたのか。軍法会議にも匹敵する重い理由を覚悟し、身構える佐藤伍長。
マリーは黒いマントの袖で曲がった鼻をモゾモゾとさせながら、消え入りそうな声で言った。
「……はい。私はどうしても、魔女の国のお約束である『黒い猫』が苦手でして。近くにいると、どうしても鼻水やら涙やらが止まらないのです。黒猫を飼うという規律をどうしても守れなくて……とうとう呪いをかけられました」
まさかの「重度の猫アレルギー」という衝撃の真実。
「ズコッッッッ!!!」
誰もいないポートモレスビーの密林で、完全軍装の佐藤伍長は、愛用の三八式歩兵銃を抱えたまま、見事なまでに大真面目にズッコケた。略帽がずれて、ピカピカの坊主頭がランタンの光に虚しく反射する。
「ただの病気じゃねえかッ! 皇軍の衛生兵でも規律違反にはせんわッ!」
呆れ果てる佐藤伍長の横で、マリーの肩の上にとまったエゾフクロウの『五郎』が、まるで(そうなんだよ、こいつ猫ダメなんだよ)とでも言うかのように、「ゴロスケ・ホウホウ……」とのどかに鳴き声を響かせた。
敗走の絶望の果てに出会った、生真面目な日本兵と、黒猫がダメな呪われ魔女。二人の奇妙なサバイバルは、深刻な戦史の闇をユーモアの光で照らしながら、どこまでも続いていくのだった。




