第4話:ジャングル兵舎の規律と偽装技術
合成マラリア治療薬『アタブリン』――。
英語が印刷されたその小さな黄色の錠剤によって、佐藤伍長は地獄の底から這い上がるように意識を取り戻した。40度を超えていた高熱は奇跡的に引き、割れるようだった頭痛も劇的に和らいでいる。
目覚めた伍長は、傍らで煤まみれの九一式飯盒を抱えて眠る、黒いとんがり帽子に黒い服の老婆――マリー・イシカワの姿を見て、すべてを察した。
「……報告。本職を救うため、敵陣への夜間空中潜入を敢行し、米軍の最高給養物資たるアタブリンを奪取・お届けした特務民間人マリー殿に対し、深い感謝の念を禁じ得ない」
佐藤伍長は横たわったまま、大真面目に呟いた。
目覚めたマリーが鼻の曲がった老婆の顔をほころばせると、伍長はボロボロの身体を起こし、略帽の帽垂布を揺らしながら言った。
「マリー殿。貴殿の勇気ある行動は皇軍兵士に匹敵する。よって本日より、貴殿を我が歩兵第七九連隊・佐藤小隊(現員一名)の『特別民間職員』に不器用ながら任命する。これより、この緑の地獄で生き残るための、軍隊式自活訓練を開始する!」
生真面目な佐藤伍長は、恩人であるマリーをこの過酷なポートモレスビーで死なせないため、鬼教官さながらに大真面目に規律を叩き込み始めた。
「いいかマリー殿! 第一に、夜間の灯火は厳禁である! 連合軍の爆撃機を招く! 第二に、熱帯のハマダラカは気合で叩き潰せ! 病魔の元だ!」
しかし、特別民間職員たる魔女マリーは、そのガチガチの軍隊規律を、規格外の「生活魔法」でフワリと超越してみせる。
「ええっと、じゃあ、これでどうですか……?」
マリーが古びた木の杖をひと振りすると、夜の闇が一瞬だけピカッと白銀の光に包まれ、黒髪ショートカットの可憐な少女の姿が鮮烈に浮かび上がる。
光が収まると、二人の周囲には「光が絶対に外に漏れない透明な魔法の結界」が張られ、その内側でランタンが煌々と明るく灯っていた。さらに、結界の表面で蚊の群れがパチパチと弾け飛び、一匹たりとも侵入できない完璧な空気の蚊帳が完成していたのだ。
それを見た佐藤伍長は、腰を抜かさんばかりに目を見開いた。
「な、何たる一等クラスの偽装技術……! 陸軍第七技術研究所の特殊遮蔽幕を遥かに凌駕しているッ! 恐るべき防諜・防疫能力だ!」
「いえ、ただの初級の生活魔法なんですけど……(困り顔)」
驚愕する佐藤伍長に対し、マリーはお婆さんの姿のまま、さらに木の杖を小さく振った。
「伍長さんのお洋服も、綺麗にしておきますね!」
フワッ、ピカッ。
その瞬間、佐藤伍長の全身を不思議な温風が包み込んだ。
「……な、何ごとだッ!?」
次の瞬間、佐藤伍長は己の肉体と装備に起きた「文字通りの怪奇現象」に、完全に直立不動のままフリーズした。
数ヶ月の敗走で泥と血に塗れ、棘でボロボロに引き裂かれていた軍衣は、まるで旭川の兵営で支給されたばかりの新品のように、ピンと美しく折り目のついた完璧な状態に修繕されていた。それだけではない。肩からは九九式弾薬盒や水筒が定位置にピシッと収まり、三八式歩兵銃の負革までが完全に整えられた「完全軍装」へと一瞬で早変わりしていたのだ。
極めつけは、伍長自身の肉体だった。
ジャングル生活でモジャモジャと不潔に伸び放題だった顎髭や口髭は、剃刀を当てたかのように青々と綺麗に剃り上げられている。さらに、ボサボサだった髪の毛までもが、帝国陸軍の模範兵のごとく、一点の乱れもない美しい青光りする坊主頭にきれいに刈り整えられていたのである。
「ば、馬鹿な……ッ! 本職の容姿および装備一式が、週一度の定例衣服検査をもパスする完璧な模範兵の姿に強制修正された……! 散髪・入浴・衣服配給を同時に行う、超先端の人体電磁洗浄魔法か……!?」
あまりの不条理さに、大真面目に脳内パニックを起こす佐藤伍長。衣服の洗濯どころか、己の坊主頭までピカピカにされた佐藤伍長は、額に冷え汗を流しながらも、新調された完全軍装の背筋をこれ以上ないほどピシッと伸ばした。
そして、黒いとんがり帽子の老婆マリーに向かって、顎を突き出し、生涯で一番完璧な、狂いのない挙手注目の敬礼を送った。
「……特別民間職員マリー殿。実に見事な、一等クラスの軍隊式偽装・整頓技術である。感謝する!」
誰もいない熱帯の夜の密林で、完璧な完全軍装の坊主頭の伍長が、黒マントのお婆さんに敬礼するシュールな光景。
マリーはそれを見て、困り顔のまま、心の中で(良かった、身だしなみって大事ですもんね!)と優しく微笑むのだった。その傍らで、エゾフクロウの五郎が「ゴロスケ・ホウホウ」と、伍長のピカピカの坊主頭を祝福するように、のどかに鳴き声を響かせるのだった。




