第3話:電波欺瞞の箒、空を飛ぶ
煤まみれの九一式飯盒に盛られた、魔法のエスカルゴと石狩鍋風味噌汁。それを直立不動で完食した第二十師団・歩兵第七九連隊の佐藤伍長は、数ヶ月ぶりに満たされた自身の胃袋の重みに、至福のため息をついた。
じっとりとした熱帯の夜気が漂う掩体壕の中で、札幌出身の堅物軍人と、木製の竹箒を小脇に抱えた魔女――マリー・イシカワは、ここで初めて大真面目にお互いの自己紹介を交わしていた。
「……なるほど。イシカワ少将の令嬢ではなく、異界の『魔女』殿であったか。自分は第七師団の管轄たる歩兵第七九連隊の佐藤伍長。郷土は北海道の札幌である。規律を破って追放され、老婆の姿に変えられる呪いを受けたとのこと……心中お察しする」
「うう、わかってもらえて嬉しいです……。マリー・イシカワって言います。呪いを解く方法もわからなくて、ずっと困ってて……」
そう言ってシュンとうつむくマリーの姿は、とてもではないが可憐な少女には見えなかった。
国を追われた呪いによって、彼女の身体はすっかり腰の曲がった老婆へと変えられていた。身に纏うのは、星明かりを吸い込むような漆黒の魔女特有のローブ(黒い服)。そして頭には、つばの広い「黒いとんがり帽子」を深く被っている。何よりその顔は、まるでお伽噺の絵本から抜け出してきたように「鼻の先が不気味に鍵型に曲がった」、見る者を一瞬で恐怖させる典型的な醜い老婆のそれであった。
だが、その不気味な黒帽子の老婆の細い肩の上には、不釣り合いなほど愛らしい、白と茶の斑点模様を持った一羽の鳥が止まっていた。マリーの相棒、エゾフクロウの『五郎』である。
五郎は南方のジャングルにいるのが信じられないほど、北海道の夜の森と同じように、のどかに「ゴロスケ・ホウホウ」と丸い目を瞬かせた。佐藤伍長は「やはりどう見ても郷土の森の鳥だな。五郎という名も妙に馴染む……」と未だに自身の脳髄を疑いつつも、軍人としての無骨な礼を尽くして、黒いとんがり帽子の老婆に向かってピシッと敬礼を返した。
すると、マリーが「お腹がいっぱいになったら、男の人はこれが好きだって聞いたので……」と、古びた木の杖をそっとひと振りした。
パッとジャングルの闇が一瞬だけ白銀の光に包まれ、その光の残像の中に、漆黒のローブではなく、黒髪のショートカットを揺らした、若くて健気なマリー本来の可憐な少女の姿が鮮烈に浮かび上がる。佐藤伍長がまたしても「一等可憐な女子のホログラフィを観測ッ!」と脳内で大真面目に目をこする中、光が収まると、そこにはまた「黒い服に黒いとんがり帽子、鼻の曲がったお婆さん」のマリーが立っており、彼の手元には戦前の日本で愛された高級タバコ『ゴールデンバット(金鵄)』と、一本のマッチが出現していた。
「ば、馬鹿な……!『金鵄』だとッ!? 輜重が壊滅し、パパイヤの枯れ葉を丸めて代用タバコにするこの地獄の前線に、何故恩賜の煙草にも匹敵する幻の最高級給養が存在するのだ……!」
佐藤伍長は激震が走った手でマッチを擦り、その火を近づけた。数ヶ月ぶりに本物の煙を肺いっぱいに吸い込んだ瞬間、彼の頬に初めて恍惚の表情が浮かぶ。
「美味い……美味すぎる。これは我が皇軍の敢闘精神を最高潮に昂揚させる、一等クラスの魔法物質である……」
紫煙をジャングルの夜空へ燻らせ、至福の報酬に酔いしれる佐藤伍長。しかし、その贅沢な時間は唐突に暗転した。
タバコを指から落とした直後、伍長の身体がガタガタと激しく震え出したのだ。ニューギニア戦線の真の天敵である「悪性マラリア」の間欠熱が、最悪の周期で再発したのである。40度を超える高熱に、伍長の視界が急速に狭まっていく。
「……くっ、本職の機動輪(身体)に……重大な、不具合が……。マリー殿、三八式歩兵銃と……飯盒を……頼む……」
朦朧とする意識の中、軍人としての最後の命令を残して、佐藤伍長はバタリと意識を失った。
「伍長さん! 伍長さん、しっかりしてくださいっ!」
マリーは鼻の曲がった老婆の顔を涙で濡らしながら必死に呼びかけたが、伍長の呼吸は荒くなるばかりだった。日本軍の兵站が崩壊した今、彼の手元に特効薬のキニーネはない。マリーは決意した。ポートモレスビーの沿岸に巨大な野戦病院を構え、合成マラリア治療薬『アタブリン』やキニーネを大量に空輸して豊富に備蓄している、米豪連合軍の薬品倉庫から薬を「お届け」してくるしかない、と。
「行ってきます、五郎! 伍長さんの飯盒を薬箱にするわ!」
マリーは黒いマントを翻し、煤まみれの九一式飯盒を小脇に抱え、木製の竹箒に跨がって夜空へと力強く飛び立った。肩の上の五郎が「ゴロスケ・ホウホウ!」と鋭い目を光らせて、夜間飛行のナビゲーターとして先導する。
――その頃、ポートモレスビー沿岸の米軍レーダー基地は、かつてない大パニックに陥っていた。
最新鋭の対空レーダー『SCR-270』のブラウン管を見つめていたオペレーターが、突如として悲鳴のような声を上げたのだ。
「報告! 敵機接近! ベアリング(方位)一八〇、高度一〇〇! 速度……に、二五ノット(時速約四五キロ)!?」
「何だと!? 速度が遅すぎる、鳥の群れか!?」
「いえ、単一の明確なプロット(機影)です! ……しかし、信じられません! 機体材質による金属反応(RCS)が完全にゼロです! レーダー波をすべて透過しているか、吸収されています!」
「馬鹿な……金属反応ゼロだと!? 日本軍の新しいステルス夜間奇襲機か!?」
米軍の管制室には瞬く間に怒号が飛び交った。彼らは大真面目に、「日本軍が竹と紙を特殊加工して極秘に開発した、電波を完全に欺瞞する超最先端の秘密飛行兵器だ!」と大勘違いしたのだ。
「対空高射砲班、全部隊戦闘配置! 探探灯を照射せよ!」
「ラバウルから夜間戦闘機P—61『ブラックウィドウ』が迎撃に来る前に、地上の対空火網で叩き落とせ!」
キィィィィィン!!とジャングルの夜空を、何十条もの強烈なサーチライトの白い光が切り裂いた。
激しい対空砲火が周囲の対空を赤く染める中、当のマリーは、サーチライトの目も眩むような光に包まれながら、黒い服をバタつかせ、黒いとんがり帽子を手で押さえながら、鼻の曲がった老婆の顔を極限まで引きつらせて箒にしがみついていた。
「ひえぇぇぇっ!? なんであんなに大砲を撃って大騒ぎしてるんですか〜! 私、ただの魔女の宅急便なんですけど〜〜っっ(困り顔)!!」
あまりの眩しさにエゾフクロウの五郎が「ホウ! カッ!」とパニック気味に怒り狂いながらも、木製の箒は米軍の最新鋭レーダー網を完全に無効化し、高射砲の弾幕の隙間をふんわりと、しかし確実にすり抜けていく。
最新科学の粋を集めた米軍の総力を、黒いとんがり帽子の老婆と五郎が完全におちょくっていく。ミリタリーの歴史を揺るがす不条理な夜間ステルス飛行が、ポートモレスビーの夜空で激しく展開されるのだった。




