第2話:給養なき天の恵み
夜の帳が降りたポートモレスビーの密林は、昼間以上の恐怖に満ちていた。
漆黒の闇の中、視界は完全に遮断され、聞こえてくるのは不気味な夜行性の熱帯雨林の鳴き声と、遠くで断続的に炸裂する米軍の陣地から放たれる一〇五ミリ榴弾砲の重低音だけである。
「……よし、灰汁は抜けたな」
巨木の根元に掘った小さな掩体壕の中で、第二十師団・歩兵第七九連隊の佐藤伍長は、後生大切に持ってきた煤まみれの九一式飯盒を覗き込んでいた。
一九四五年(昭和二十年)春。補給線が完全に途絶した東部ニューギニアで生き残るため、彼は軍の「野戦自活訓練」の規定に則り、必死のサバイバルを行っていた。泥水で何度も晒して毒を抜いた野生のヤム芋のツル。そして、今日の最大の戦果は、ジャングルの湿った不潔な腐葉土の上で這っていた、親指ほどもある巨大な熱帯カタツムリの群れだった。
衣服はボロボロで略帽に帽垂布を揺らす札幌出身のこの堅物軍人は、兵器である三八式歩兵銃を膝元に置きながら、大真面目にそのカタツムリを飯盒の水で煮込もうとしていた。
ゴロスケ・ホウホウ……。
ゴロスケ・ホウホウ……。
その時、じっとりとした熱帯の夜気の中、あまりにも場違いなのどかな鳴き声が響いた。
佐藤伍長がギロリと視線を上げると、暗闇の中に浮く古びた木製の竹箒に跨がった、黒いとんがり帽子の老婆――マリー・イシカワが、大きな鼻を曲げて困り顔でこちらを見ていた。そして彼女の細い肩の上には、なんと、佐藤伍長の郷土である北海道の森にしか生息しないはずの『エゾフクロウ』が、丸い目で大真面目に飯盒を見つめていた。
「……報告。南方戦線、敵前不時着地付近において、郷土固有種であるエゾフクロウの音声を再び明確に感知。本職の聴覚および脳髄、依然としてマラリアの重症熱による狂乱状態から脱していないと認める」
伍長は極めて冷静な口調で、手帳にそう大真面目に記録しようとした。
マリーは、彼の削げ落ちた頬と、飯盒の中でうごめくドロドロのカタツムリのツル煮を見て、いたたまれないように顔を歪めた。
「あ、あの……兵隊さん。そんな衛生局が気絶しそうな不潔なもの食べちゃダメです! 私、魔法使いですから……ちょっとお手伝いさせてください!」
マリーがそう叫び、古びた木の杖を天に掲げた。
次の瞬間、パッとジャングルの闇を切り裂いて、神聖な白銀の光が円陣を描いて炸裂した。その眩い光の障壁の中心に、鼻の曲がった老婆の姿ではなく、黒髪のショートカットを揺らした、若くて健気で、今にも泣き出しそうなマリー本来の可憐な少女の姿が、一瞬だけ鮮烈に浮かび上がった。
「ッッ!? た、ただいま、老婆が魔法の光を媒介とし、瞬間的に札幌の街角にいそうな一等可憐な女子に変貌する怪奇現象を再観測! 米軍の新型立体ホログラフィか、はたまた因幡の白兎の妖術か!?」
直立不動で脳内ツッコミを入れる佐藤伍長。光が収まると、そこにはハアハアと息を切らし、再び老婆の姿に戻ったマリーが、困り顔で立っていた。
しかし、奇跡は佐藤伍長の飯盒の中で起きていた。
フワァ……と立ち上ったのは、ジャングルの腐臭を完全に消し去る、圧倒的な「日本の匂い」だった。
なんと、飯盒の蓋には、ふっくらと光り輝く炊きたての白米。そして、佐藤伍長の嗅覚を一瞬で故郷へと引き戻す、ジャガイモと鮭のハラスを濃厚な味噌で煮込んだ『石狩鍋風』の温かい味噌汁が満ちていたのだ。
さらに、伍長が命がけで採集したあの泥臭いカタツムリたちは、魔法の力によって、信じられないほどお洒落な陶器の器に並び、パセリと濃厚なガーリックバターがジュワジュワと音を立てて香る、フランス高級料理の「エスカルゴ」へと完全な変貌を遂げていたのである。
「バ、バカな……! 輜重(補給部隊)が壊滅したこのポートモレスビーに、何故我が札幌の実家のごとき最高級給養と、仏蘭西の高級夜会のようなハイカラな肉料理が存在するのだッ!?」
佐藤伍長は腰を抜かさんばかりに驚愕した。
「皇軍兵士として、敵の精神工作(毒殺)には絶対に屈せん!」
不器用な軍人精神で激しく抵抗する伍長だったが、数ヶ月ぶりの本物の米と、故郷の味噌、そしてガーリックバターの狂暴な香りに、彼の胃袋はジャングルの静寂を打ち破るほどの爆音で鳴り響いてしまう。
マリーは「毒なんて入れてません〜!」と困り顔になりながら、飯盒の白米をスプーンで一口食べて安全を証明した。
ついに覚悟を決めた佐藤伍長は、飯盒を両手で厳かに捧げ持った。
「……お国のために、頂く」
箸(代わりに削った竹串)で白米を口に運び、さらにエスカルゴの身を口に放り込んだ瞬間、佐藤伍長の全身に激震が走った。
濃厚なバターの旨味と、何年も食べられなかった本物の日本の米の甘み、そして五臓六腑に染み渡る故郷の味噌の味。極限の絶望を耐え抜いてきた男の目から、大粒の涙がボロボロと泥塗れの頬を伝って落ちていく。
だが、彼は不屈の佐藤伍長であった。
彼は涙を流し、口の周りをバターと味噌で濡らしながらも、バッとその場に立ち上がると、目の前の老婆マリーに向かってピシッと完璧な直立不動の姿勢を取った。
「報告ッッ!! 本給養は、米の立ち具合、味噌の調合、ならびにカタツムリを西洋の『エスカルゴ』へと一等クラスの偽装を施したその調理技術、いずれも帝国陸軍給養規定を遥かに凌駕する最高機密品であると認める! 特にこの味噌汁の芋の具合は、札幌の実家の母親の味に酷似しており……実に見事な給養であるッッ!!(号泣)」
誰もいない熱帯のジャングルで、大真面目に軍隊式の絶賛レポを叫びながら、貪るように奇跡の飯を胃袋にかき込んでいく佐藤伍長。
マリーはそれを見て、お婆さんの顔のまま、心の中で(良かった……!)と、どこまでも優しく微笑むのだった。その傍らで、相棒のエゾフクロウもまた「ホウ、ホウ」と、伍長の一等品の食レポを承認するかのように、のどかに鳴き声を響かせるのだった。




