第1話:1945年春・ポートモレスビーの魔女
一九四五年(昭和二十年)春。東部ニューギニア、ポートモレスビーの北方に立ちはだかるオーエンスタンレー山脈の裾野は、底なしの「緑の地獄」と化していた。
つい先ほどまでジャングルを激しく叩きつけていた熱帯特有のスコールが止むと、密林の気温は一気に上昇し、地表からは腐った泥と菌類、そして戦死者の遺体が放つ饐えた臭気が混じり合った濃密な水蒸気が立ち上る。
「……フウ、……フウ、……ウ、……」
巨木の根が複雑にのたうつ泥濘の隙間に身を潜め、途切れ途切れの荒い呼吸を必死に押し殺している一人の男がいた。
第二十師団・歩兵第七九連隊所属、佐藤伍長。郷土・札幌の兵営を出てから幾星霜、かつては南海支隊の精鋭として、破竹の勢いでポートモレスビー攻略作戦の最前線を突き進んだ猛者である。しかし、現在の彼にその面影はない。
かつての栄光に満ちた進撃は、連合軍の圧倒的な物量と航空兵力の前に、悲惨極まる「敗走」へと姿を変えていた。
海上からの補給線は「ダンピールの悲劇(ビスマルク海海戦)」によって完全に遮断され、弾薬も食糧も届かない中、歩兵たちは飢えとマラリア、そしてアメーバ赤痢に蝕まれながら、じわじわと後退を余儀なくされた。峻険なるサラワケット山脈を越える退却戦では、飢餓のあまり動けなくなった戦友たちが「伍長殿、命の弾を置いていってくれ」「お国のために、頼む」と言い残し、凍える山中で次々と自決していった。あるいは、退路の途中で行き倒れた兵士たちの遺体が、熱帯の蟻に喰い荒らされながら無数の白骨と化し、さながら「生ける屍の行進」となってジャングルへ散っていったのだ。
組織としての戦線は完全に崩壊し、部隊は散り散りに瓦解。佐藤伍長が所属していた小隊も、数日前に米軍の猛烈な包囲火網に捉えられ、彼一人を残して全滅した。今や彼は、退路も増援も絶たれたこのポートモレスビー周辺の密林で、たった一人の「現地自活・徹底抗戦」を強いられて三ヶ月が経とうとしていた。
彼の衣服はジャングルの棘で引き裂かれ、血と泥、そして自身の汗で赤黒く染まって原形を留めていない。頭に被った略帽からは、苛烈な日差しと容赦なく襲いかかる吸血虫を防ぐための帽垂布が、湿った首筋に薄汚くまとわりついていた。
飢えによって頬は削げ落ち、眼窩だけがギラギラと異様な鋭さを放っている。意識は絶え間なく襲う間欠熱で朦朧としていたが、その手だけは、帝国陸軍歩兵の魂である「三八式歩兵銃」の木床を寸分の狂いもなく正確に握り締めていた。背嚢の脇には、どれほど泥に塗れ、敵の銃火をくぐり抜けようとも、後生大切に手放さなかった煤まみれの九一式飯盒が、固く結びつけられている。これが彼の、軍人としての最後の意地であり、生存のすべてだった。
ドササササササササササササッッ!!!
突如、頭上のジャングルの天蓋を凄まじい爆音と風圧が引き裂いた。
金属質の甲高い、そして重厚な双発エンジンの咆哮。米軍の最新鋭戦闘機、P—38『ライトニング』の二機編隊だ。オリーブドラブに塗装された一二〇〇馬力のアリソン・エンジンが、機首に狂暴に突き出た二〇ミリ機関砲と一二・七ミリ重機関銃をギラつかせながら、超低空でジャングルを圧するように威嚇飛行していく。
同時に、遥か後方の陣地からは、米軍の「一〇五ミリ榴弾砲」が放つ重低音の砲撃音が断続的に響き、地響きとなって佐藤伍長の鼓膜を激しく揺らした。敗走する日本兵を一人残らず殲滅せんとする、圧倒的な物量と火力。米軍は索敵網を完璧に敷き詰め、地上のわずかな動静も見逃さない構えだった。
佐藤伍長は反射的に息を止め、木の根の泥の中に深く顔を伏せた。薬室に装填されている三八式実包は、これが本当に最後の一発。敵の斥候に見つかれば、一瞬で重機関銃の餌食となり、肉片に変えられる。
やがて、P—38の金属音的な爆音が遠ざかり、再びジャングルにじっとりとした湿った静寂が戻った――かと思った、その時だった。
ガサリ。
十メートルほど前方の、瑞々しいバナナの巨葉が、不自然に大きく揺れた。米軍のパトロールか。佐藤伍長は脳の血管が千切れるほどの緊張感の中、音もなく三八式歩兵銃の安全子を手のひらで押し込みながら解除し、銃口を狂いなくその方向へ向けた。人差し指が、冷え切った引き金に静かに触れる。
「……突撃、してきたら……刺し違える……!」
割れた唇の間から、悲壮な決意が漏れる。だが、葉をかき分けてフワリと宙に現れたのは、カーキ色の米軍服でも、偽装網を被ったヘルメットでもなかった。
それは、古びた木製の「竹箒」に跨がり、不釣り合いに大きな黒いとんがり帽子を被った、鼻の曲がった不気味なお婆さんだった。そしてさらに驚くべきことに、その不気味なお婆さんの細い肩の上には、この南方の熱帯雨林には逆立ちしても生息するはずのない、白と茶の美しい斑点模様を持った『エゾフクロウ』が、一羽ちょこんと止まって、丸い目で伍長を見つめていた。
「ひえぇぇっ!? あ、アイム、マリー・イシカワ! 撃たないで、撃たないでください〜!!」
その顔は見事なほど世間一般の不気味な魔女の老婆そのものなのに、口から飛び出してきたのは、まるで内地の女学生のような、若くて気弱で健気な、今にも泣き出しそうな女の子の声だった。
「…………ッッ!?」
佐藤伍長は泥塗れの直立不動の姿勢のまま、両目を見開いた。
「報、報告ッ! 本職、補給なき過酷なる自活戦の末、ついに脳髄が完全に狂乱をきたした模様! 敵の新型精神音波兵器、あるいは郷土の山姥の幻覚を前方に観測ッッ!!」
大真面目に混乱した佐藤伍長は、銃口を激しく震わせながら、目の前の凄まじい現実(幻覚)を振り払うために、声を枯らして『教育勅語』を叫び始めた。
敗走の絶望の果て、餓死寸前の札幌出身の日本兵と、呪われた魔女マリー・イシカワ。この二人が織りなす、誰も見たことのない不条理なミリタリー・ユーモアサバイバルが、今ここに幕を開けたのである。




