第99話 進路
十二月に、三者面談があった。
走の親は来られなかった。高山から名古屋まで、平日の午後に出てくるのは難しい。
電話で済ませることになった。担任の机の上に、走の母の声だけが置かれる形になる。
「東くん、成績はいいんです」
担任はそう切り出した。
三十代の女性教師だった。走の担任は三年間この人で、走のことをよく見ている。よく見ているぶん、この面談は難しくなると走は思っていた。
「学年で、上から十番以内にずっといます。理系が強い」
スピーカーの向こうで、母が「あら」と言った。
「知りませんでした」
「言ってないんですか」
「言わないんですよ、この子。試合の話はするんですけど」
担任が走を見た。
走は少しだけ気まずくなって、机の木目を見た。
「それで、進路なんですけど」
担任は書類をめくった。
「東くん、サッカーのほうは、上のカテゴリーに上がる話が進んでいるんですよね」
「はい」
「上がれたら、そのまま系列の高校ですか」
「いえ。県立を受けます」
尾張のユースは、高校を指定しない。選手は自分で高校を選び、放課後にクラブへ通う。走が行く予定の県立高校は、寮から自転車で二十分の場所にある。
「そこは、進学校ですよ」
「知っています」
「部活と両立できますか」
「クラブなので、部活ではありません」
「同じことです」
担任の言い方は、厳しくはなかった。
むしろ、心配していた。
「東くん」
担任は少し身を乗り出した。
「これは、担任として言っておきたいんですけど」
「はい」
「サッカーで、プロになる子は、何人に一人だと思いますか」
走は答えなかった。
数字なら知っている。この年代でクラブの下部組織にいる子供のうち、プロ契約に至るのは百人に一人もいない。ユースまで上がっても、そこからさらに絞られる。
担任が言おうとしていることは、全部正しい。
「あなたの成績なら、もっと上の高校も狙えます」
担任は続けた。
「医学部だって、いまの成績なら無理じゃない。三年真面目にやれば、たぶん届きます」
走の指先が、少しだけ止まった。
「東くん、将来なりたいものはありますか」
担任が聞いた。
走はそこで、初めて口を開いた。
「サッカー選手です」
「それは、分かってます。その先です」
「その先」
「怪我をしたら。上がれなかったら。二十五歳で契約が切れたら」
担任は言った。
「そのときのために、いま選べる道を狭めないほうがいい」
走は、その一文を静かに受け取った。
正しい。
この人は、走を潰そうとしていない。走の道を、なるべく広く保っておこうとしている。教師としては、これ以上ないくらい真っ当な助言だった。
(――同じことを、言われた)
走の膝の裏が、冷たくなった。
前の生で、父が言った。
お前はもう十分やった。
あのときも、父は走を潰そうとはしていなかった。息子の道が細くなるのを見て、広いほうへ戻そうとしただけだ。医者になれ、と言ったのは、そこがいちばん広い道だったからだ。
そして走は、その道を行った。
いま目の前の担任は、まったく同じ場所に立って、まったく同じことを言っている。
違うのは、一つだけだった。
この人は、走に選ばせようとしている。
選択肢を狭めるな、と言っているのであって、サッカーをやめろとは一度も言っていない。
父は、やめさせた。
「東くん?」
担任が呼んだ。
走は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
走は言った。
「こっちで続けたいです。県立を受けます。医学部は、たぶん受けません」
スピーカーの向こうで、母が少し笑ったのが聞こえた。
「先生、すみません。この子、昔から一回決めると聞かないので」
「いえ」担任は少し笑った。「聞かない子のほうが、伸びますから」
走はその一言を、少し意外に思った。
この人は、走に医学部を勧めながら、走が断ることを織り込んでいた。
だから、あの言い方だったのだ。
その夜、走は自分から電話をかけた。
三コールで出た。
「どうしたの」
「さっきの話」
「うん」
「県立、寮から自転車で二十分だ。練習は五時からで、学校は三時半に終わる」
「ぎりぎりじゃない」
「ぎりぎりだ。定期テストの週は、クラブが練習を落とす」
「へえ」
母は感心したような声を出した。
「あんた、それ全部調べたの」
「調べた」
「心配なことは?」
走は少し黙った。
言うかどうかで、一拍迷った。
「電車が止まると、遅れる」
「それだけ?」
「あと」
走は言った。
「三年やって上がれなかったら、そのとき何をするかは、まだ決めてない」
電話の向こうが、少し静かになった。
「決めてなくていいでしょ、それは」
母は言った。
「決めてないって言えるようになったなら、上等だよ」
走は天井を見た。
「……うん」
「他には?」
「ない」
「そう」
母は「じゃあね」と言いかけた。
言いかけたところで、走が止めた。
「母さん」
「なに」
「卒業式、来られそう?」
言ってから、走は自分の心臓が速いのに気づいた。
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「三月……何日」
「十五日」
「金曜か」
母はそこで少し考えていた。
「午前?」
「十時から」
「うーん、前の日に出れば行けるわ。父さんは無理かも。あの人、その週忙しいって言ってた」
「一人でいい」
「一人でいいの?」
「一人で、じゅうぶんだ」
走はそう言って、それから、続けた。
「来てほしい」
「行くよ」
あっさりしていた。
走はしばらく、受話器を持ったまま何も言わなかった。
「まだなんかある?」
「……ある」
「なによ」
「今日、江口が八十分走った話、したっけ」
「してない」
「あいつ、一年のときは三本目で死んでた」
「はいはい」
母は笑った。
走はそのまま、十分喋った。
電話を切ってから、走は自分のノートを開いた。
書くことは、特になかった。
開いて、閉じた。
寮の窓から、名古屋の十二月が見えた。高山より三度暖かい。雪は降らない。
三月には、この街に母が来る。




