第100話 幕間・アカネ ~葬式~
最後の試合は、十二月の第一週だった。
三年にとっての引退試合で、相手は同じ市内の中学だった。
アカネは、後半の頭から入った。三十分あった。
ボールは、二回だけ来た。
一回目は収まらなかった。
二回目は、来る前から決めていた。
背中で受けるのはもう無理だ。今年ずっとそうだった。だからアカネは、受ける前に半身を作って、相手の足が届かない側へ一度触ってから落とした。
狙ったとおりに、味方の前に転がった。
そこから点にはならなかった。
それでも、アカネは自分の足の裏に残った感触を覚えていた。
三十分走って、アカネがやったのは、それだけだ。
それだけだが、最後の一本は、狙って通した。
笛が鳴った。
両チームが並んで、礼をした。
三年が何人か泣いていた。アカネは泣かなかった。
泣かなかったのは、悲しくなかったからではない。
まだ終わっていない気がしたからだ。
脚は動く。呼吸も乱れていない。三十分走って、まだ走れる。走れるのに、もう試合がない。
更衣室の外で、ケンジが待っていた。
「アカネちゃん、おつかれ」
「……うん」
「三年間、すごかったよ。まじで」
ケンジは本気でそう言っていた。
悪気は、どこにもない。
うれしかった。
うれしかったが、三年間すごかった、というのは、終わった人に言う言葉だった。
その二つが、同時に来た。
「ありがと」
アカネはそれだけ言った。
「あとさ」ケンジが続けた。「後半の二本目の落とし、あれよかった」
アカネは足を止めた。
「……見てた?」
「見てた。おれ、あれ拾えなかったけど」
「拾いなよ」
「ごめん」
ケンジは笑って、走っていった。
アカネは少しのあいだ、そこに立っていた。
見ていた人が、一人はいた。
その週の土曜、アカネは整体院へ行った。
膝を診てもらう用事はなかった。
受付で、遠野が顔を上げた。
「あら」
「……終わりました」
「なにが」
「最後の試合」
遠野はしばらくアカネを見て、それから、奥の休憩室を顎で指した。
「入りな」
休憩室は狭かった。
パイプ椅子が二脚と、小さいテーブルがある。壁に人体の図が貼ってあった。
遠野はインスタントのコーヒーを二つ作って、片方をアカネの前に置いた。
「飲める?」
「たぶん」
アカネは一口飲んで、顔をしかめた。遠野が少し笑った。
「まずいって言ったでしょ」
「言ってました」
「で」
遠野は自分のカップを持った。
「どうだった」
「勝ちました」
「へえ」
「あたしは、二回しかボール触ってないです」
アカネは言った。
言いながら、なぜか少し笑おうとしていた。
「でも、二回目はよかったんですよ。半身作って、触ってから落として。ケンジも見ててくれて、あれよかったって……」
そこで、声が続かなくなった。
アカネは口を閉じた。
閉じてから、自分の膝を見た。
「……まだ、走れるんです」
「うん」
「三十分走って、全然平気で。なのに、もう試合がないんです」
アカネは言った。
「終わった感じが、しない」
遠野はコーヒーを飲んだ。
しばらく、何も言わなかった。
「それ、あたしもだった」
遠野が言った。
「最後の試合の日、ぴんぴんしてた。悔しいとも思わなかった。ただ、明日から練習がないんだなって、それだけ」
「……はい」
「で、あとから来た」
「いつですか」
「あたしは春だった」
遠野は言った。
「あんたがいつかは、知らない。来ないかもしれない。ただ、来たときに一人でいるのは、あんまりよくない」
アカネはうつむいた。
膝の上で、指が震えていた。
「……あたし、誰に言えばいいですか」
「あたしでいいよ」
遠野はあっさり言った。
「いつでもいい。来な」
アカネはそこで、泣いた。
泣きながら、明るく言おうとして、失敗した。
「あの、あたし、ほんとは、そんな、泣くほどじゃ」
「うん」
「二回しか、触ってないし」
「うん」
遠野は、ティッシュの箱を机の端へ滑らせた。
それだけだった。
しばらくして、アカネは鼻をかんだ。
「で、そろそろ聞くけど」
遠野が言った。
「……はい」
「あんた、あのノート、まだ書いてる?」
アカネは顔を上げた。
「なんで知ってるんですか」
「前に来たとき、鞄から出てた」遠野は肩をすくめた。「表紙、無地の。中は見てないよ」
アカネは自分の鞄を見た。
今日も、二冊とも入っている。
「見せてみ」
アカネは少しためらってから、二冊とも出した。
遠野はそれを開いて、しばらく黙って読んでいた。
ページをめくる音だけがした。
三分ほどして、遠野が言った。
「一冊目、去年?」
「去年の秋です」
「二冊目のここ、一冊目の一行に返事してるでしょ」
アカネは驚いた。
気づかれるとは思っていなかった。
「してます」
「一年かけて、自分に返事したわけだ」
遠野はノートを閉じて、テーブルに置いた。
それから、アカネの顔をまっすぐ見た。
「これ、どこで詰まった」
「理由です」
アカネは即答した。
「見えるんです。あの子が落ちるとか、あの膝が危ないとか。当たるんです。でも、なんでかが分からない」
「うん」
「だから、人に渡せない。この前、顧問に日付だけ渡したんですけど、それが精一杯で」
「渡したんだ」
遠野が、少し眼を開いた。
「渡しました」
「それ、けっこうすごいよ」
遠野は言った。
「見えるのに黙る人のほうが、多いから」
アカネは、その一言をしばらく受け取れなかった。
「あんたが欲しいのは、理由でしょ」
「はい」
「理由は、勉強すれば手に入る。あんたの見えてるものに、名前と数字がつく。つけば、渡せるようになる」
遠野はコーヒーを飲み干した。
「そこまで行くには、高校三年と、そのあと何年かいる。楽な道ではないよ」
「……何年ですか」
「人による。四年で足りる人もいるし、もっとかかる人もいる」
遠野は言った。
「いま決めなくていい。高校で何を取るかだけ、春までに調べときな」
「……はい」
「あと」
遠野はノートの二冊目を指した。
「ここの三つ目の問い。戻り切ったをどう測るか、ってやつ」
「はい」
「それ、答えの出てない問いだよ」
アカネは顔を上げた。
「え」
「まだ誰も、きれいには測れてない。いろんな測り方があって、どれも半分」
遠野は少し笑った。
「あんた、中三で、その辺に手をかけてる」
アカネの胸のあたりが、熱くなった。
「次来るとき、それの本を一冊持ってくるわ。日本語のやつあったかな」
「……お願いします」
帰り道、アカネは自転車を押して歩いた。
まだ、葬式は出していない。
出す日がいつかも、決まっていない。
決まっていないまま、アカネは自転車にまたがった。
家に着く前に、公園の横を通った。
小学生が二人、ボールを蹴っていた。転がってきた一つを、アカネは足の裏で止めて、蹴り返した。
ちゃんと、届いた。
「うま!」
子供が言った。
アカネは笑って、自転車を漕ぎ出した。
十二月の高山は、もう雪の匂いがしていた。




