第101話 三年ぶんの折れ線
一月の大会を三日後に控えた午後、眞鍋が走を呼び止めた。
「東さん。ちょっと来てください」
ミーティング室のパソコンの前に、眞鍋は座っていた。
画面に、折れ線が二本出ている。
「三年ぶんです」
眞鍋は言った。
「東さんの、中一の四月から今日まで」
「三年ぶん、あるんですか」
「クラブのGPSは、東さんが入った年の春から回ってます。データは全部、パソコンに溜まってました」
眞鍋はあっさり言った。
「私が入ったのが一昨年の春です。最初にやったのが、その掘り起こしでした。自分で測ったのは、そこから今日まで。掘ったのが、その前の一年ぶんです」
走はその画面を見た。
一本目は、八十分あたりの走行距離だった。
中一の四月から、少しずつ上がっている。
二本目は、後半四十分の走行距離を前半で割った値だった。
その線は、ほとんど平らだった。三年間、走の後半は前半とほぼ同じだけ動いている。
「一本目は、みんな上がります」眞鍋は言った。「身体が大きくなるので当たり前です」
「はい」
「二本目が、東さんだけです」
眞鍋は画面を指した。
「三年間、九十九パーセント台をキープしてる人、他に一人もいません。私が掘ったなかで」
「百を超えた試合も、あります」
「ありますね。後半のほうが走ってる日。三回」
「三回ですか」
「三回です」
走はそこで、少し笑った。
自分で数えていたのは二回だった。
「あと、これ」
眞鍋が別の画面を出した。
棒グラフだった。
「東さんの対面の選手が、後半で落ちた率です」
棒が、二十本ほど並んでいる。
どれも、下を向いている。
「中一の秋から、東さんとやった相手を全部拾いました。平均で、後半のスプリント本数が前半の六割に落ちてます」
「……そうですか」
「他の右サイドバックの対面は、平均八割です」
眞鍋は走を見た。
「ほかの人とやれば八割残るはずの相手が、東さんとやると六割しか残らないんです」
《実測/東 走 中一四月—中三一月》
八十分走行 ――― 上昇。身体が育ったぶん。
後半÷前半 ――― 九十九パーセント台。三年、平ら。百超えが三回。
対面の後半÷前半 ――― 平均六割。他の右サイドバックの対面は八割。
差 ――― 二十ポイント。これが、三年ぶんの設計。
「もう一枚、出せますか」
走は言った。
「六月からの、接触のやつです」
「ありますよ」
眞鍋は画面を切り替えた。
六月から十一月まで、走が相手から直接ボールを奪った回数が、月ごとに並んでいる。
六回だった。
五月の紅白戦の一本を入れて、七回。
「少ないですね」
眞鍋が言った。
「多いほうです」
「そうなんですか」
「去年はゼロでした」
走はその棒を、しばらく見ていた。
六回は、身体が大きくなったから増えたのではない。
大きくなったのは、去年の夏からずっとだ。だが六月に三度試して、三度とも弾かれている。
増えたのは、条件を数えられるようになってからだった。
相手のスプリントが後半で十本を超えていること。直前の一本で急停止と切り返しを両方させていること。自分の脚が八割残っていること。
三つ揃った場面が、半年で六回あった。
身体が増えたぶんと、使える場面が増えたぶんは、別のものだった。
「あと、これは数えてないんですけど」
眞鍋が言った。
「東さん、後半に一回獲ると、そのあと相手がそっちへ来なくなりますよね」
走は顔を上げた。
「気づいてましたか」
「気づきますよ。十一月の試合、東さんの側にボールが来た回数、後半の後ろ二十分でゼロです」
「……それは、獲るより効いてます」
「でしょうね」
眞鍋はうなずいた。
「でも、それは数字になりません。来なかったボールは、記録に残らないので」
走はその一言を、少しのあいだ噛んでいた。
この子は、数えられるものと数えられないものの境目を、正確に知っている。
「眞鍋さん」
「はい」
「これ、持って帰っていいですか」
「刷りますよ」
眞鍋はプリンタのボタンを押した。
「ありがとうございます」
走は言った。
「三年ぶん、掘るの、大変だったと思います」
「大変でした」
眞鍋は正直だった。
「ファイル名が全部日付だけで、どれが誰だか分からないところから始めたので」
「なんで、やったんですか」
眞鍋は少し考えた。
「最初は、暇だったからです」
「暇」
「一年生って、やることないんですよ。でも途中から、変になってきて」
「変」
「東さんの二本目が、平らすぎるんです」
眞鍋は画面を指した。
「普通、どこかで崩れるんですよ。怪我とか、テスト週間とか、体調とか。崩れた線を見ると、その人が何をした週か分かります。それが面白いんです」
「俺のは」
「崩れないんです。三年、一回も」
眞鍋は言った。
「だから、逆に気になりました。この人、何をしてるんだろうって」
走は少しのあいだ、返事ができなかった。
一昨年の春、走は眞鍋に記録を頼んだ。続けて取ってほしい、という一点だけだった。
頼んだのは、続きだった。
それが積み上がって、三年ぶんの形になって、今日まとめて手元へ来た。
そのうえ、見ていた人には、見ていた理由があった。
「……面白かったですか」
「いまも面白いです」
眞鍋は紙を取って、走に渡した。
「大会、頑張ってください。私、全部撮るので」
その日の練習の終わりに、海が言った。
「東」
「はい」
「九割まで来た」
走は顔を上げた。
この前まで、八割と言っていた男だった。
「増やしたんですか」
「増やしてない。お前が組んだメニューのままだ」
海は自分の右膝を叩いた。
「たぶん、骨が落ち着いた。伸びが止まって、腱が追いついた」
「……よかったです」
走はそう言った。
言ってから、それが今日いちばん言いたかったことだと気づいた。
「九割で止まると思う。十割には戻らん」
海はそう言って、少し笑った。
「だが、九割で足りる」
「足りますか」
「足りる」
走は、その一年七ヶ月を頭の中で数えた。
中二の六月、この人は廊下で「頼む」と言った。
毎朝、体育館で片脚立ちをやった。走が紙にメニューを書いて、海がそれを持ち帰った。三週間目に「変わらん」と言われ、二ヶ月目に「一本だけ戻った」と言われた。
「大会、どうしますか」
走は聞いた。
「どうする、とは」
「九割の海さんと、俺で、何ができますか」
海はしばらく考えた。
「お前が上がる回数を、増やす」
「増やすんですか」
「俺が落ちる速さは、去年より上がってる。十二秒待たなくても、八秒で間に合う日がある」
海は言った。
「そのぶん、お前は前で使え」
走は少し笑った。
「よかった。今度はその速さで、前も使えます」
「使え」
海はそれだけ言って、行った。
その夜、走は眞鍋の刷った紙を机に広げた。
三年ぶんの折れ線が、そこにある。
二年半前、走はノートにこう書いた。
――見える形になっていないものは、この世界では、無いのと同じだ。
一行が、いま紙になって手元にある。
誰も知らないことは、まだたくさんある。江口の膝と血。財前の三分。海の配線。どれにも走の名前はついていない。
それでいい、と走は思った。
思ったうえで、少しだけ寂しかった。
走はその寂しさを、書こうとしてやめた。
かわりに、紙の余白に日付を入れた。
今日、一人と一緒にこれを見た。
それだけ書いて、走は紙を挟んでノートを閉じた。




