第97話 幕間・アカネ ~降りるという言葉~
遠野に出会ったのは、地元のスポーツ整体院の待合だった。
膝を診てもらう順番を待つあいだ、アカネは持ち込んだ本を開いていた。
図書館で借りた一冊だ。付箋が十七枚ついている。
その手元を、受付の奥から一人の女の人が見ていた。
「それ、独学?」
三十くらいの静かな眼をした人だった。遠野、と名札にあった。
アカネがうなずくと、遠野はページのほうへ顎をしゃくった。
「付箋、そこに貼るんだ」
アカネは自分の手元を見た。
「なんか、変ですか」
「いや。ふつう、太字のところに貼るんだよ。あんた、表の下の注のとこに貼ってる」
アカネは少し驚いた。
見ていたのだ、と思った。
自分が何を面白がって読んでいるかを、誰かに見られたのは初めてだった。母は本の題名しか見ない。部の誰にも、このノートのことは言っていない。
悪い気は、しなかった。
「あたしも昔、そこにいた」
遠野は言った。
「県でそこそこ点を取ってた。中学で、普通の男子に根こそぎ抜かれた」
アカネの心臓が跳ねた。
「……同じです」
「だろうね」
遠野は笑わなかった。
「その顔、見たことあるから。鏡で」
アカネは、うつむいた。
「あの」
「うん」
「やめたんですか」
「やめた」
遠野はあっさり言った。
「中三の冬に。そのあと専門へ行って、いまここにいる」
「……後悔、してますか」
「やめたことは、してない」
遠野は一度、言葉を切った。
「やめ方は、してる」
アカネは顔を上げた。
「あたしね、まだやめてないのに、こっちの勉強を始めたんだ」
遠野は自分の手を見ていた。
「中三の秋。どうにもならなくなって、保険のつもりで本を開いた。そのあとの最後の数か月は、選手としても半分、勉強も半分だった」
「それ、だめだったんですか」
「あたしには、だめだった」
遠野は言った。
「人によると思うよ。両方ちゃんとやれる子もいる。あたしはできなかった。それだけの話」
アカネは、その言い方に少し救われた。
決まりを言い渡されたのではなかった。この人が自分でやってみて、うまくいかなかった話をしている。
「あんた、いま何年」
「中三です」
「試合、あと何回」
「……三つです」
「そう」
遠野はそれ以上、何も聞かなかった。
アカネは膝の上の本を、指で押さえた。
押さえてから、自分でも思っていなかったことが出た。
「まだ、やりたいんです」
声が、少し掠れた。
「勝てないのは分かってます。今年ずっと、ボールも来ないです。それでも、蹴りたいんです。明日も練習に行きたいんです」
遠野は黙って聞いていた。
「なのに」
アカネは言った。
「やめるのが、怖いんです。やめたらあたし、何もなくなる気がして」
遠野はコーヒーのカップを持ったまま、しばらく何も言わなかった。
待合の時計の音が、二回鳴った。
「怖いよ」
やがて、遠野が言った。
「怖くないって言う人がいたら、たぶん嘘か、まだ来てないだけ」
「……はい」
「でさ」
遠野は言った。
「あたしが一個だけ思ってるのは、ちゃんと終わらせるっていうことなんだけど」
「終わらせる」
「うん。あたしは、逃げるみたいにやめた。最後の試合、どんな試合だったか覚えてない。覚えてないのに、十五年経ってまだ夢に見る」
遠野は少し笑った。
「変な話でしょ」
「……いえ」
「だから、あたしはあれを、自分の葬式を出しそこねたって呼んでる」
葬式。
アカネはその言葉を、口の中で一度転がした。
やめる、でもない。諦める、でもない。
死んだことにして、ちゃんと送る。
「それ、やったら」
アカネは聞いた。
「サッカー、嫌いにならずに済みますか」
遠野は少し驚いた顔をした。
それから、初めて眼のほうも笑った。
「いい質問だな、それ」
「……」
「あたしはね、いまでもたまに蹴ってるよ。近所のフットサル。下手になったけど、楽しい」
アカネの胸のどこかが、少し緩んだ。
「選手をやめることと、サッカーを嫌いになることは、別だから」
遠野は言った。
「そこだけは、分けといたほうがいい」
アカネはうなずいた。
うなずいてから、残りの三つの試合のことを考えた。
三つとも、たぶんボールは来ない。来ても弾かれる。勝てない。
それでも、出る。
誰かに言われたからではなかった。自分で、そう決めた。
「あの」
アカネは言った。
「三つ、終わったら」
「うん」
「また、来てもいいですか」
「どうぞ」
遠野は受付の紙を一枚裏返して、そこに何か書いた。
診察の日じゃなくても入れる曜日と、時間だった。
「これ、休憩時間。コーヒー、まずいけど」
「……ありがとうございます」
アカネはその紙を、ノートに挟んだ。
帰り道、自転車を押しながらアカネは考えていた。
残りの試合は、あと三つ。
最後まで出て、最後の笛を自分の脚で聞く。
そのあとのことは、そのあとで決める。
アカネは自転車にまたがった。
夕方の道が、いつもより長く見えた。
長く見えたが、初めてその先に何かがある道に見えた。




