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『親に夢を諦めさせられて医者になった俺、転生して今度こそ本気でサッカーをやる』  ~最新スポーツ医学で"90分落ちない身体"を設計し、世界一のサイドバックになる~  作者: 猫の飼い主
第五章 降りなかった者たち

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第97話 幕間・アカネ ~降りるという言葉~

 遠野(とおの)に出会ったのは、地元のスポーツ整体院の待合だった。


 膝を診てもらう順番を待つあいだ、アカネは持ち込んだ本を開いていた。


 図書館で借りた一冊だ。付箋が十七枚ついている。


 その手元を、受付の奥から一人の女の人が見ていた。


「それ、独学?」


 三十くらいの静かな眼をした人だった。遠野、と名札にあった。


 アカネがうなずくと、遠野はページのほうへ顎をしゃくった。


「付箋、そこに貼るんだ」


 アカネは自分の手元を見た。


「なんか、変ですか」


「いや。ふつう、太字のところに貼るんだよ。あんた、表の下の注のとこに貼ってる」


 アカネは少し驚いた。


 見ていたのだ、と思った。


 自分が何を面白がって読んでいるかを、誰かに見られたのは初めてだった。母は本の題名しか見ない。部の誰にも、このノートのことは言っていない。


 悪い気は、しなかった。


「あたしも昔、そこにいた」


 遠野は言った。


「県でそこそこ点を取ってた。中学で、普通の男子に根こそぎ抜かれた」


 アカネの心臓が跳ねた。


「……同じです」


「だろうね」


 遠野は笑わなかった。


「その顔、見たことあるから。鏡で」


 アカネは、うつむいた。


「あの」


「うん」


「やめたんですか」


「やめた」


 遠野はあっさり言った。


「中三の冬に。そのあと専門へ行って、いまここにいる」


「……後悔、してますか」


「やめたことは、してない」


 遠野は一度、言葉を切った。


「やめ方は、してる」


 アカネは顔を上げた。


「あたしね、まだやめてないのに、こっちの勉強を始めたんだ」


 遠野は自分の手を見ていた。


「中三の秋。どうにもならなくなって、保険のつもりで本を開いた。そのあとの最後の数か月は、選手としても半分、勉強も半分だった」


「それ、だめだったんですか」


「あたしには、だめだった」


 遠野は言った。


「人によると思うよ。両方ちゃんとやれる子もいる。あたしはできなかった。それだけの話」


 アカネは、その言い方に少し救われた。


 決まりを言い渡されたのではなかった。この人が自分でやってみて、うまくいかなかった話をしている。


「あんた、いま何年」


「中三です」


「試合、あと何回」


「……三つです」


「そう」


 遠野はそれ以上、何も聞かなかった。


 アカネは膝の上の本を、指で押さえた。


 押さえてから、自分でも思っていなかったことが出た。


「まだ、やりたいんです」


 声が、少し掠れた。


「勝てないのは分かってます。今年ずっと、ボールも来ないです。それでも、蹴りたいんです。明日も練習に行きたいんです」


 遠野は黙って聞いていた。


「なのに」


 アカネは言った。


「やめるのが、怖いんです。やめたらあたし、何もなくなる気がして」


 遠野はコーヒーのカップを持ったまま、しばらく何も言わなかった。


 待合の時計の音が、二回鳴った。


「怖いよ」


 やがて、遠野が言った。


「怖くないって言う人がいたら、たぶん嘘か、まだ来てないだけ」


「……はい」


「でさ」


 遠野は言った。


「あたしが一個だけ思ってるのは、ちゃんと終わらせるっていうことなんだけど」


「終わらせる」


「うん。あたしは、逃げるみたいにやめた。最後の試合、どんな試合だったか覚えてない。覚えてないのに、十五年経ってまだ夢に見る」


 遠野は少し笑った。


「変な話でしょ」


「……いえ」


「だから、あたしはあれを、自分の葬式を出しそこねたって呼んでる」


 葬式。


 アカネはその言葉を、口の中で一度転がした。


 やめる、でもない。諦める、でもない。


 死んだことにして、ちゃんと送る。


「それ、やったら」


 アカネは聞いた。


「サッカー、嫌いにならずに済みますか」


 遠野は少し驚いた顔をした。


 それから、初めて眼のほうも笑った。


「いい質問だな、それ」


「……」


「あたしはね、いまでもたまに蹴ってるよ。近所のフットサル。下手になったけど、楽しい」


 アカネの胸のどこかが、少し緩んだ。


「選手をやめることと、サッカーを嫌いになることは、別だから」


 遠野は言った。


「そこだけは、分けといたほうがいい」


 アカネはうなずいた。


 うなずいてから、残りの三つの試合のことを考えた。


 三つとも、たぶんボールは来ない。来ても弾かれる。勝てない。


 それでも、出る。


 誰かに言われたからではなかった。自分で、そう決めた。


「あの」


 アカネは言った。


「三つ、終わったら」


「うん」


「また、来てもいいですか」


「どうぞ」


 遠野は受付の紙を一枚裏返して、そこに何か書いた。


 診察の日じゃなくても入れる曜日と、時間だった。


「これ、休憩時間。コーヒー、まずいけど」


「……ありがとうございます」


 アカネはその紙を、ノートに挟んだ。


 帰り道、自転車を押しながらアカネは考えていた。


 残りの試合は、あと三つ。


 最後まで出て、最後の笛を自分の脚で聞く。


 そのあとのことは、そのあとで決める。


 アカネは自転車にまたがった。


 夕方の道が、いつもより長く見えた。


 長く見えたが、初めてその先に何かがある道に見えた。

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