第96話 幕間・アカネ ~いないのと同じ~
その日の後半、アカネは完璧に抜けた。
相手の最終ラインが一歩上がった、その内側。走り出しの角度も、速さも、置きどころも合っていた。声も出した。名前を呼んだ。
ボールは、逆サイドへ運ばれた。
アカネは走るのをやめて、歩いて戻った。
戻りながら、自分の中で数えた。今日、これで四回目だ。
責める気にはならなかった。
いまのアカネにパスを出さない判断を、昔のアカネならいちばん先に下している。
それが分かることが、いちばんきつい。
試合の終わりぎわに、ケンジが横を通った。
「アカネちゃん、さっきの抜け出し、めっちゃよかった」
「出てないけどね」
「あー……」
ケンジは本気で困った顔をした。困った顔のまま、続けた。
「おれ、見えてなかったわ。ごめん」
「いいよ。見えてないのはあんただけじゃないし」
言ってから、少しきつかったかと思った。
ケンジは気にしていない顔で「次は見る」と言って、走っていった。
次は見る、と言った人が、去年からもう何人もいる。
試合が終わって、アカネはベンチに座ったまま、しばらく立てなかった。
悔しいのに、悔しがる資格が薄い。動けている。走れている。ただ、ボールが来ないだけだ。
こういう日が、この秋はもう何度もあった。
それでも、アカネの眼だけは動いていた。
ベンチから見ると、ピッチの全部が見える。
誰がどこで足を止めるか。誰が声を出さないか。前半の三十分で、どのあたりから走り方が変わるか。
去年の秋からノートに書いてきたことが、今年は書く前に見えるようになっていた。
その日、アカネはひとつ気になるものを見つけた。
一年の細い子だった。
三本目の上下動から、着地の音が変わる。左だけが重い。本人は普通に走っているつもりでいる。
去年のアカネなら、ここで止まっていた。
理由が言えないから、言えない。危ない気がする、では誰も動かない。
今年は、そこで止まらなかった。
試合後、アカネは顧問のところへ行った。
「先生」
「おう」
「一年の相田くん、後半の三本目から左の着地の音が変わってました。今日だけじゃなくて、先週の練習でもです」
顧問は「へえ」という顔をした。
「原因は分かるの」
「分かりません」
アカネは言った。
「分からないんですけど、回数だけ数えました。今日で三回目です」
顧問はしばらくアカネを見て、それから手帳を出した。
「回数、言って」
アカネは日付を三つ言った。顧問はそれを書き取って、「見とく」と言った。
それだけだった。
それだけだったが、アカネは自転車を漕ぎながら、ずっとそのことを考えていた。
理由が言えなくても、数えたものは渡せる。
去年、松葉杖の一年を廊下で見たとき、アカネは何も渡せなかった。
今日は、三つの日付を渡した。
家に帰って、アカネはノートを開いた。
一冊目は、去年の秋に始めたものだ。表紙には何も書いていない。
最初のページの、同学年の男子の名前の横。
――後半十五分で落ちる。前日の量に比例。
去年のアカネが書いた一行だ。
書いたときは、なぜかが分からなかった。
いまは、半分だけ分かる。
図書館で借りた本に、疲れた筋肉が力を戻すまでの時間の話があった。前の日に使いすぎると、翌日は戻り切らないまま始まる。戻り切らない状態で始めた身体は、同じ距離を走るのに余計な燃料を使う。
だから、後半に早く落ちる。
アカネはその一行の下に、小さく書き足した。
――前の日に戻り切ってないから。
書いてから、しばらくそのページを見ていた。
一年前の自分に、返事を書いた気分だった。
二冊目のノートには、新しい問いが増えている。
――戻り切るまでに、何時間いるのか。
――食べる時間と量で、その何時間かは変わるのか。
――そもそも「戻り切った」は、どうやって測るのか。
三つ目のところで、アカネのペンが止まった。
これは、五冊では分からない。
図書館の棚には、まだ読んでいない列がある。読んでいない列を思い浮かべると、胸のあたりが少し落ち着かなくなった。
早く、日曜が来ればいい。
アカネはノートを閉じた。
閉じてから、鞄の横のスパイクを見た。
明日も練習がある。
ボールは、たぶん来ない。来ても収まらない。
それでも、明日も蹴りたい、とアカネは思った。
それは調べたい気持ちとは別のところにあって、どちらも同じくらいはっきりしていた。
二つあることを、アカネはまだうまく並べられない。
並べられないまま、アカネはスパイクの紐を結び直して、鞄の口を閉じた。




