第95話 痛みの殴り合い
三度目の夏に、走は高山へ帰った。
一六六センチ、五六キロ。バスの座席が、去年よりさらに狭い。窓を開けても、匂いは変わらなかった。
家に着くと、母が言った。
「また大きくなった」
もうそれしか言わない。
言わないかわりに、飯が増えていた。
汁があって、青いものがあって、米が最後に来る。並びは三年前と同じで、量だけが違う。走は黙って三杯食べた。
「食うねえ」
「食う」
「足りる?」
「足りる」
母は満足したような顔をして、皿を下げた。
名古屋の食堂の飯を、走は不満に思ったことがない。栄養の設計としては、あちらのほうが正確だ。
それでも、この台所の匂いのほうが、肩から力が抜けた。
二日目の夕方、走は中学のグラウンドの前を通った。
通ったのは、偶然ではない。
練習試合をやっていた。走は道路側の金網の前で足を止めた。
アカネは、出ていた。
出ていたが、いないのと同じだった。
走の眼は、五分でそれを理解した。
ボールが、来ない。
アカネはいい場所へ動いている。動き出しの質は、この年代の男子の誰よりも高い。裏へ抜けるタイミングも、受ける角度も、正確だ。
誰もそこへ出さない。
悪意ではなかった。
出しても収まらない、と味方の身体が判断している。判断が当たっているから、誰も自分を疑わない。
一度だけ、ボールが入った。
アカネは背中で受けようとして、後ろから来た相手に身体を入れられ、弾かれた。
走はフェンスを掴んでいた手を、離した。
金網の跡が、掌に残った。
三年前、走はこの場所で計算した。早ければ来年の夏、遅くても再来年。
計算どおりだった。
全部、走が視たとおりに起きた。
試合が終わって、アカネが出てきた。
走に気づいて、足を止めた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「……見てた?」
「見てた」
「そう」
アカネは笑おうとして、失敗した。
二人は、空き地へ歩いた。
誰もいなかった。夕方で、杭が四本、いつもの場所に立っている。田口の爺さんが刈った草の匂いがした。
アカネは真ん中に座った。走はその二メートルほど離れた場所に立った。
「あんた、でかくなったね」
「……ああ」
「あたし、去年から二センチ」
アカネはそう言って、自分の膝を抱えた。
「もう、いいんだけどさ」
走は何も言わなかった。
「ねえ」
アカネが顔を上げた。
「あんた、あたしのこと、いつから分かってた?」
走は答えられなかった。
「小六の冬でしょ。あんた、あのとき何か言おうとしてやめた」
「……」
「その次の夏も。フェンスのとこにいたよね。あたし、気づいてたよ」
アカネの声は、静かだった。
「三年、黙ってたんだ」
「……ああ」
「なんで」
走は、そこで初めて口を開いた。
「言っても、変わらないからだ」
言った瞬間に、間違えたと分かった。
アカネが立ち上がった。
「変わらないって、なに」
「……」
「あたしが何やっても無駄だったって、あんた、三年前から知ってたってこと?」
「そうじゃない」
「そうでしょ!」
アカネが叫んだ。
「知ってたなら言えばよかったじゃん! そしたらあたし、あんなに走らなかった! 毎朝六時に起きて、雪の日も走って! 飯も無理やり食って! それ全部、意味なかったんでしょ!」
「意味は」
「あるって言うの?」
アカネの眼が、走を正面から刺した。
「あんたに、何が分かるの」
走の中で、何かが切れた。
「分かる」
走は言った。
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「分かるわけないでしょ。あんた、いま右サイドバックで、名古屋で試合出てるんでしょ。でかくなって、来年ユース上がるんでしょ」
「上がる」
「じゃあ分かんないよ」
「アカネ」
走は一歩前へ出た。
「お前の痛みは、俺には分からない」
アカネが、口を閉じた。
「走る前に決まってしまう痛みは、俺には分からない。それは、お前のものだ」
走は続けた。
「けど、まだ走れるのに、終われって言われる痛みなら」
声が、震えた。
「俺は、その一つだけは知ってる」
空き地が、静かになった。
アカネは走を見ていた。
「……いつ」
走は答えなかった。
「いつよ。あんた、そんな目に遭ったことある?」
走は答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
六十八年前でも、六年前でもない。この身体は一度も終わらされていない。走が知っているその痛みは、この世界のどこにも記録がない。
言えば、この子は走を病気だと思う。
だから走は、黙った。
黙ったまま、走の眼から、勝手に何かが落ちた。
アカネは、それを見た。
見て、動けなくなった。
この幼馴染の泣き顔を、アカネは知らない。膝を擦りむいても、大会で負けてもだ。リクの脚を診ているときも、この男は一度も顔を変えなかった。
その男が、いま何も言わずに泣いている。
嘘ではない、とアカネは思った。
何かは知らない。いつかも分からない。
でも、この人はどこかで、本当に終わらされたことがある。
「……ずるい」
アカネは、また座り込んだ。
「なにそれ。あたしより痛そうな顔してんじゃん」
「悪い」
「謝んないでよ」
「そっちじゃない」
走は言った。
アカネが顔を上げた。
「さっきの言い方だ。言っても変わらない、って言った」
「……」
「知ってるつもりで、勝手に先まで決めた。そこは、俺が悪い」
アカネはしばらく、走を見ていた。
「……うん」
それだけだった。
いいよ、とは言わなかった。
走もそれ以上、何も足さなかった。
しばらく、二人とも動かなかった。
夏の夕方の光が、空き地の草をゆっくり黄色くしていった。
「何が見えてたの」
アカネが聞いた。
「言えるだけ言って」
走は、少し考えてから答えた。
「肩だ。競ったときに、お前の身体が半歩ぶん後ろへ運ばれる。去年の夏から、それが増えてる」
「うん」
「同学年の男子の首と肩が、去年から明らかに変わった。お前の身体は、去年からほとんど動いてない」
「……それ、ずっと見てたんだ」
「見てた」
「で、分かんないのは」
走は正直に言った。
「そこから先だ。お前が毎朝どういう気持ちで起きてたかは、俺には分からない。来ないパスを待つ三十分がどれくらい長いかも、分からない」
アカネは膝に顎を乗せて、しばらく黙っていた。
「……長いよ」
「そうか」
「すっごい長い」
それきり、また黙った。
「あたしさ」
しばらくして、アカネが言った。
「まだ、やめてないから」
「……ああ」
「やめてないけど、たぶん、もうすぐやめる」
走は何も言わなかった。
「やめたら、あたし、何になるんだろ」
その問いに、走は答えを持っていた。
持っていて、言わなかった。
言えば、それはアカネの答えではなくなる。誰かに示された道を歩く人生と、自分で見つけた道を歩く人生。途中は同じでも、終わりが違う。
走はそれを、前の生で知っている。
だから走は、いちばん言いたいことを飲み込んで、代わりに一つだけ言った。
「お前の眼は、いい」
アカネが顔を上げた。
「……は?」
「昔から、いちばん先に気づくのはお前だった。俺のことも、リクのことも」
「なにそれ。慰め?」
「事実だ」
アカネはしばらく走を見て、それから、鼻で笑った。
「意味わかんない」
アカネは立ち上がって、草をはらった。
「帰る」
「ああ」
アカネは畦道のほうへ歩いていった。
十メートルほど行って、一度だけ振り返った。
何か言いかけて、やめた。
それから、また前を向いて歩いていった。
走はその背中を、見えなくなるまで見ていた。




