第94話 二年目の背中
七月の練習後、白石が走を呼んだ。
「東。ちょっと来い」
クラブハウスの二階に、ユースの練習場が見下ろせる窓がある。
白石はそこに立っていた。
「見てみろ」
下では、ユースが実戦形式をやっていた。
走はその中に、探すまでもなく一人を見つけた。
黒木岳。高校二年。
三年前より、さらに大きい。肩の厚みが違う。走の眼が測るまでもなく、この年代を超えた身体だった。
最初の三分で、走は身を乗り出していた。
速い。三年前より速い。
特に、最初の三歩だ。あの体重を、三歩で最高速まで持っていく。下の年代なら反則のような加速が、上の年代でも通じている。
競り合いも変わっていた。三年前の岳は、身体の強さだけで押していた。いまは入る角度が違う。相手の胸の一段下へ肩を入れて、体重を乗せる前に相手の足を浮かせている。
覚えた技術だ。三年で、この人は自分の身体に技術を足している。
走の手が、窓枠を握っていた。
(――強い)
その一言が、いちばん先に来た。
だが四分目に、別のものが見えた。
岳が、押されている。
対面のウイングが縦へ仕掛ける。踏み込みひとつで岳の重心が半歩遅れる。慌てて戻り、また遅れる。
走は五分見て、数え終えた。
速さではない。重さだ。
九十キロ近い身体を、サイドの幅で止めて、また出す。一度の切り返しで、対面のウイングの倍は燃料を使っている。
走の胃の底が、冷たくなった。
走らせて止めさせて、また出させて削り切る戦い方。三年前、走が一年かけて岳に仕掛けたものだ。
それをいま、対面のウイングは何ひとつ企まずにやっている。
「分かるか」
白石が言った。
「……はい」
「言ってみろ」
「あの身体は、サイドだと止めて出すのに使う燃料が大きすぎます。八十分、あの幅で繰り返すのは割に合いません」
白石は少しのあいだ黙った。
「五分でそこまで見えるか」
「……三年、見てきたので」
「そうか」
白石は窓に肘をついた。
「黒木は、去年ユースで十二試合出た。今年はまだ四試合だ」
走は顔を上げた。
「押し出されてる。同じポジションに、三年がいる」
「……あの、白石さん」
「なんだ」
走は、聞くことにした。
「さっきの、六本目です。中へ切り込めた場面で、黒木さんは外へ出ました」
「見てたか」
「あれ、外のほうが遠いです。なんで外だったんですか」
白石は少しのあいだ、走を見た。
「お前、それを黒木に聞いたことあるか」
「……ないです」
「じゃあ、俺の答えは半分だ」
白石は言った。
「外は、失点にならん。中へ入って取られたら、そのまま失点になる。去年からベンチが増えてる選手が、どっちを選ぶと思う」
走は、そこで初めてその角度から見た。
燃費の話だと思っていた。
選び方の話でもあった。
「あの人が、中へ入りたいかどうかは」
「知らん」
白石はあっさり言った。
「俺は聞いてない。お前も聞いてない。俺たちは、外から数えてるだけだ」
「……はい」
「東。お前、来年ここに上がる」
白石は言った。
「上がったら、あの中で毎日やる」
走は下を見た。
ユースのピッチには、全員が黒木岳のような身体が並んでいる。パワー、スピード、高さ。ジュニアユースで岳ひとりが持っていた規格外が、ここではただの標準だった。
そして、その標準の中で、岳が押し出されている。
「お前の武器は、九十分落ちんことだろ」
白石が聞いた。
「はい」
「あいつら、全員落ちんぞ」
走は、その一言を静かに受け取った。
分かっていた。分かっていたが、下で動いている身体を実際に見ながら聞くと、意味が違った。
落ちないことが、無駄になるわけではない。
落ちないうえで、何ができるかを問われる場所へ行く、ということだ。
中一のときと同じだった。高山で積んだ読み方は、名古屋でも通じた。通じたうえで、十一人の中で何をするかを問われた。
順番は、いつも同じだ。
「怖いか」
白石が聞いた。
走は少し考えて、正直に答えた。
「少しは」
「ほう」
「ただ、順番は分かっています」
走は言った。
「上がったら、また下からです。それは去年も、一昨年もそうでした。……ただ」
「ただ?」
「上がるたびに、下からの距離が長くなります」
白石が笑った。
「その言い方、初めて聞いたな」
その週の金曜、走はクラブハウスの外で岳とすれ違った。
岳は練習を終えて、荷物を担いでいた。走に気づいて、足を止めた。
「東」
「……はい」
「二番、着けてるんだってな」
「着けてます」
「聞いた」
それだけだった。
走は、そこで一つ聞くことにした。
「黒木さん」
「あ?」
「三年前より、最初の三歩が速いです」
岳の眉が、少し動いた。
「見てたのか」
「上から。二階の窓です」
「……趣味悪いな」
「はい」
岳は笑わなかった。笑わなかったが、嫌そうでもなかった。
「速くしたんだよ」
岳は言った。
「一年かけて、前の三歩だけやった。上に来たら、それしか差が作れなかった」
「効いてました」
「まだ足りん」
岳はそう言って、歩き出した。
走は、その背中に向かって言った。
「来年、上がります」
岳が止まった。
「早く、同じチームでやりたいです」
少し間があった。
「……気持ち悪いこと言うな、お前」
「よく言われます」
「上がってこい」
岳はそれだけ言って、行った。
走はその背中を、見えなくなるまで見ていた。
中一の終わりに、この人は「次はユースで待ってる」と言った。
あのとき走は、それを追いつくための約束として受け取った。
いま、その約束の意味が少し変わって見える。
あの人は、上で待っている。
待っているあいだに、あの人自身が、上で何かを作り替えている。
走はノートを開いて、一行書いた。
――黒木岳。三歩目まで速い。サイドの往復では割に合っていない。
その下に、もう一行足した。
――中央なら、と思う。ただし本人に聞いていない。
書いてから、走はもう一行足した。
――来年、隣で聞く。




