第93話 使う
五月の紅白戦で一本獲ってから、走はそれを試合でも試すようになった。
最初は、うまくいかなかった。
あの紅白戦で獲れたのは、相手が完全に空だったからだ。試合では、そこまで削り切れる場面が八十分に何度もない。
六月の公式戦で、走は三度試して、三度とも弾かれた。
削りが足りていなかった。
走はその夜、条件を書き出した。
――相手のスプリント本数が、後半で十本を超えていること。
――直前の一本で、急停止と切り返しを両方させていること。
――こちらの脚が、まだ八割残っていること。
三つ揃わないと、入れない。
七月の試合で、その三つが揃った。
その前に、前半で一つ、去年はできなかったことがあった。
相手の九番が、右の深い位置へ流れてきた。一八〇近い。競り合いになれば、去年までの走は必ず外へ押し出されていた。
走は背中を預けて、そのまま止まった。
流れなかった。
九番が一度、走の肩を確かめるように押した。走は動かなかった。二度目の押しが来る前に、財前が中央から寄せて、ボールは外へ出た。
走は自分の背中の感触を、そのまま覚えておくことにした。
同じ場所に、同じ体重で立っている。相手だけが去年と同じで、こちらだけが違う。
後半の三十四分。相手の左ウイングは、この試合で十三本走っている。直前の一本で、走が餌を見せて急停止させた。
走は自分の残量を確かめた。八割ある。
行く、と決めたのは走だった。
誰にも言われていない。設計でもない。五月に一度できたから、今日もできるはずだと思った。それだけだ。
肩から入った。
流れなかった。ボールが走の側へ出た。
走はそれを自分の足で運んで、二歩前へ出てから、海へ渡した。
運びながら、笑いそうになった。
五月の一本は、たまたまではなかった。
面白いのは、そのあとだった。
次に同じウイングが右へ来たとき、縦へ出る手前で、一度、走から身体を離した。
肩を合わせに来ない。
走の眼には、その半歩が見えた。
当たれば取られると思っている。思っているぶん、進路が外へ寄る。外へ寄れば、行き先は一つしかない。
走はそこに先に立った。相手は止まって、後ろへ下げた。
触っていない。当たってもいない。
それでも、一本消えた。
(――これも、使える)
走はその発見を、走りながら噛んだ。
獲るのは、八十分に一度あるかないかだ。だが「獲れる」と思わせるのは、毎回できる。
後半の終わりに、走は一度だけ上がった。
右を四十メートル。相手の左サイドハーフは、この日もう走の裏へ出てこない。走が空けた場所へ誰も入ってこなかった。
走はそこから折り返して、江口の足元へ入れた。
江口が決めた。
試合が終わって、江口が走の背中に飛び乗ってきた。
「東くん、いまのパス!」
「入った」
「おれ、あそこ走るって決めてたんだよ」
「知ってる。だから出した」
「えっ、なんで知ってんの」
「三年見てる」
「こわ!」
江口は笑って、そのまま水を飲みに行った。
ロッカーで、財前が言った。
「お前、今日気持ち悪かったな」
走は顔を上げた。
「どこがだ」
「あの九番、後半お前に近寄らなくなったろ」
「なった」
「何かした?」
「一本獲った。それだけだ」
「それだけで避けるかよ、普通」
財前はタオルで顔を拭いた。
「気持ち悪い」
「さっきから、それしか言ってないぞ」
「他に言い方ないんだよ」
「褒めてるなら、もう少し分かるように言え」
財前は一瞬止まって、それから吹き出した。
「褒めてる」
「ならいい」
「お前、前より口が早いな」
「言われたからな。聞かれる前に言え、って」
「……それ、去年の俺だろ」
「去年の財前だ」
財前は「うっわ」と言って、タオルを顔に押し当てた。
走はその横で、スパイクの紐をほどいた。
右足の外側が、擦れている。
五月の一本も、今日の一本も、この足でやっている。
ノートを開いて、走は短く書いた。
――七月十九日。二本目。
その下に、もう一行足した。
――獲らなくても、獲ると思わせれば消える。
書いてから、走は少しのあいだ、その二行を見ていた。
来週も試合がある。
三つの条件が揃う場面は、たぶん一度あるかないかだ。
一度あれば、行く。
走はノートを閉じて、電気を消した。




