第92話 止められない男
六十分に、青嵐が交代のカードを切った。
入ってきたのは、風間空だった。一点リードしている場面で、守りを固める交代ではない。
ソラは前線に入った。
守る気は、たぶん最初からない。
走はその瞬間から、自分の設計を組み直した。
この二年で分かっていることは、二つだ。
一つ。削っても減らない。この男は候補を作らないので、疲れても選択肢が減らない。
二つ。読んでも出ない。重心の傾きは、行き先を教えてくれない。
だから走は、この日、三つ目を試した。
(――近づかない)
走は、ソラの前に立つのをやめた。
立てば、ソラは走を通過する。二年、それしか起きていない。
かわりに走は、ソラがボールを受ける場所そのものを狭めにいった。
ソラの周りではなく、ソラへボールが入る前の一手を消す。
六十一分に、尾張が追いついた。
その前の一本だった。走が右を上がって、リクが戻ってくる。走はリクの寄せが半歩遅れた瞬間に、低いクロスをニアへ入れた。
レオが押し込んだ。
一対一。
レオが両手を上げて走ってきて、走の首に腕を回した。
「アズマ! お前、あいつ引きつけてから出したろ!」
「出した」
「うっま!」
走は息を整えながら、レオの腕の下でうなずいた。
自陣へ戻る途中で、走はもう一度、前線を見た。
ソラは走を見ていなかった。空を見ていた。
退屈そうな顔をしていた。
最初の五分、走の三つ目は効いた。
ソラはボールに触れなかった。触れられなかった、というほうが正しい。
走が右で相手の配球役を詰まらせる。海が中央を締める。ソラの足元へ入るはずのボールが、その手前で二回、こちらへ転がった。
六十六分に、この試合で初めて正面から向き合った。
こちらのミスだった。中盤で味方がボールを引っかけられ、そのこぼれ球が、たまたま前へ転がった。
ソラの足元だった。
走は最終ラインにいた。位置は正しい。角度も正しい。走とソラのあいだには、財前もいる。
ソラはボールを触って、それから、走のほうへ来た。
走は、読むのをやめた。
この二年で分かっていることが一つある。この男の重心は、行き先を教えてくれない。教えてくれないものを読もうとすると、走の身体は必ず先に動く。先に動けば、そこを通られる。
だから走は、動かなかった。
ただ、通れる幅だけを消した。
「財前、外!」
「はい!」
「氷室さん、内!」
「言われんでも締めてる」
外は財前が閉じた。内は海が絞った。走がやったのは、その二つのあいだに自分の胴を置いて、幅をゼロにすることだけだった。
ソラが仕掛けてきた。
傾いた。走は動かない。
ソラの身体が、行き先を見つけられずに、一度止まった。
止まった。
走の足が、ボールに触れた。
押し出して、外へ出した。青嵐のスローインになった。
ベンチも、観客も、走がいま何をしたかを分かっていない。
分かっている人間が、二人いた。
「止めた」
走は言った。
息が上がっていた。上がった声のまま、続けた。
「いまの、止めた」
「止めたな」
財前が走の肩を掴んで、一度強く揺すった。
「お前、動かなかったろ。腹立つくらい動かなかった」
「動いたら、通られる」
「知ってる」
海が走の横を通りながら、短く言った。
「幅がゼロなら、あいつでも止まる」
「はい」
「覚えとけ。三人要る」
走はうなずいた。
三人要る。
それは、走一人では足りないという話であると同時に、三人揃えば届くという話でもあった。
二年半で、初めてこの男を止めた。
走はその一本を、自分の中で数えた。
ソラだけが、こちらを見ていた。
「……あれ」
驚いてはいなかった。
ただ、少し不思議そうだった。
七十四分に、尾張が逆転した。
江口が右を破って、中へ折り返す。走のいる側から始まって、海が押し込んだ。
二対一。
江口がベンチに向かって両手を広げて、走のところまで走ってきた。
「東くん! おれ、破ったよ!」
「破った」
「八十分、走れるからな!」
「知ってる」
走は笑った。
七十六分に、二度目が来た。
同じ位置。同じ三人。走は同じ形を作った。
外は財前。内は海。走が幅を消す。
ソラが仕掛けてきた。
そして、走が見たことのない動きをした。
傾いたまま、身体を投げ出すように、幅のない場所へ落ちた。
通れないはずの隙間へ、身体を先に入れて、ボールを後から呼んだ。順番が逆だった。
走はその一連を、止められなかった。
止められなかったが、それより先に、別のことに気づいて背筋が冷えた。
(――変えてきた)
この男は、選ばない。考えない。積まない。
その男が、二度目に別のことをした。
走に対してだけ。
財前が寄せた。ソラはそれも、避けようとして避けたわけではなかった。ただ、身体が別の方向へ落ちて、その先にボールがついてきた。
シュートは、鷲尾の手をかすめて、ポストに当たった。
入らなかった。
入らなかったのは、たぶん偶然だった。
走は自陣で立ったまま、いま起きたことを分解しようとした。
できなかった。
(――傾いてから、決めてる)
人間は、そんな動き方をしない。
傾くというのは、そちらへ行くという意思の表明だ。そう身体ができている。傾いてから逆へ行くには、余計な力と時間が要る。
この男は、その余計な力を毎回払っている。
払っていることに、たぶん本人が気づいていない。
だから疲れない。疲れないのではなく、疲れることを勘定に入れていない。
走の武器は、相手の勘定に働きかける武器だ。
勘定していない相手には、届かない。
後半の追加時間は二分だった。
その二分目に、ソラが決めた。
誰も触っていないボールが、その足の前へ転がってきて、そのまま入った。
二対二。
笛が鳴った。
走は膝に手をついて、しばらく芝を見ていた。
整列が終わって、リクが横に並んだ。
「走」
「……ああ」
「今日、俺がお前のとこへ守りに戻ったの、初めてだわ」
「ああ」
「腹立つけど、あれ、たぶん褒めてる」
リクは笑って、それから続けた。
「決着、ユースでな」
空き地で交わした約束の言葉を、リクはこの日、初めて自分から使った。
「上で待ってる、じゃなくてか」
「もう、待つ距離じゃないだろ」
「……ああ」
走は言った。
「上でやる。俺が上がるまで、どこにも行くな」
リクが足を止めた。
「なんだそれ」
「そのままの意味だ」
「言うようになったな、お前」
リクは笑って、行った。
ソラは、走の前を通らなかった。
少し離れた場所で、チームメイトと歩いていた。走のほうを見もしない。
だが一度だけ、立ち止まった。
振り返って、走を見た。
そして、いつもの仕草をした。
少しだけ、首を傾げた。
「……あー」
それだけ言って、また前を向いて歩いていった。
走はその背中を見ていた。
三年で、四回目だ。
毎回、思い出さない。毎回、引っかかる。
寮の廊下が静かになってから、走は机に向かった。
去年の冬に書いた行が、まだそのまま残っている。
――風間空。削っても減らない。読んでも出ない。
その下に、走は今年ぶんを足した。
――幅をゼロにすれば、止まる。ただし三人要る。
――二度目を変えてきた。
走はその二行目の上で、指を止めた。
選ばない男が、選び方を変えた。
それはつまり、あの身体のどこかに、走を面倒なものとして記録した場所があるということだ。
覚えていない。名前も知らない。それでも、身体だけが覚えている。
走はもう一行、足した。
――読めないなら、読まなくていい形にするしかない。
去年の冬に書いたのと、同じ一行だった。
あのときは、書いた本人にも意味が分からなかった。
いまは、半分だけ分かる。幅をゼロにするというのは、読むことをやめるということだ。何をされるかを当てるのではなく、何もできない場所へ押し込む。
残り半分は、まだ分からない。
三人でようやく成立する形を、一人でやる方法。
走はそこにペンを置いて、灯りを消した。




