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『親に夢を諦めさせられて医者になった俺、転生して今度こそ本気でサッカーをやる』  ~最新スポーツ医学で"90分落ちない身体"を設計し、世界一のサイドバックになる~  作者: 猫の飼い主
第五章 降りなかった者たち

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第90話 四回

 五月の終わりに、眞鍋がミーティング室へ走を呼んだ。


 三年になって、眞鍋は二年になった。相変わらずタブレットを抱えて、相変わらず前置きがない。


「東さん、今年のデータです」


 画面に折れ線が出ていた。


「後半の走行距離、前半比で九十九パーセント台。去年より上です」


「はい」


「対面の被抜き率、一・一パーセント。県内の中三の右サイドバックで、たぶん最低値です」


「はい」


「完璧です」


 眞鍋はそう言って、画面を切り替えた。


「それで、これなんですけど」


 棒グラフだった。


 尾張の失点を、起点となったサイド別に分けたものだ。


 右が、いちばん高かった。


 走は少しのあいだ、その棒を見ていた。


「……俺の側は、破られていません」


「破られてません」


 眞鍋はあっさり言った。


「破られてるのは、東さんの隣です」


 眞鍋は動画を出した。


 先週の試合だった。走が右を駆け上がっている。四十メートル。走が空けた裏へ、相手が走り込む。


 大村がスライドする。


 半歩、遅れている。


 ボールがそこへ入って、折り返されて、決められた。


「これ、今年で六回目です」


 眞鍋は言った。


「東さんが上がって、その裏を大村さんが埋めにいって、間に合わない。全部同じ形です」


「……海さんのときは」


「海さんは間に合ってます。財前さんも、去年から間に合ってます」


 眞鍋は画面を指した。


「二人とも、東さんの合図を知ってるからです。海さんは手、財前さんは五メートル。去年、東さんが自分で渡したやつですよね」


「……渡しました」


「大村さんは、知りません」


 眞鍋は言った。


「東さんが手を上げる先は、海さんと財前さんです。大村さんには、向けてません」


 眞鍋は動画を止めた。


「海さんが出てない日、大村さんは東さんの背中を見て、上がったかどうかを自分で判断してます」


 走の指先が、止まった。


 海と財前には、届いている。


 届いているのは、その二人までだった。


「東さん、試合中に何回喋りますか」


 眞鍋が聞いた。


 走は答えられなかった。


 数えたことがない。


「私、数えました」


 眞鍋はタブレットをめくった。


「八十分で、四回です」


 走は、その数字を受け取れなかった。


「うちの平均は、六十三回です。財前さんは百二十回。海さんは八十回。鷲尾さんが、いちばん多くて百五十回です」


 眞鍋は顔を上げた。


「東さん、四回です」


 走はしばらく、何も言えなかった。


「なんで喋らないんですか」


 眞鍋が聞いた。


 走は、その問いに答えを持っていなかった。


「……必要が、なかったので」


「二人には要らなかっただけです」


 眞鍋は言い切った。


「東さんが正しい位置にいるのは、東さんが読めてるからです。読めてない人は、東さんが何を読んだか分かりません。分からない人は、動けません。海さんと財前さんは、二年かけて分かるようになった人です」


「……」


「あと八人います」


 その週の練習のあと、走は財前を呼び止めた。


「財前」


「なんだ」


「聞きたい」


「珍しいな」


「試合中、どう言ってる」


 財前は少しのあいだ、走を見た。


「なんだよ急に」


「四回だと言われた。八十分で」


「四回?」財前は吹き出した。「少なっ」


「財前は百二十回だそうだ」


「……数えられてんのか、俺ら」


「数えられてる」


 財前はタオルを首にかけて、少し考えた。


「言い方の問題だろ」


「どういう」


「お前、たぶん丁寧に言おうとしてる」


「……たぶんする」


「やめろ」財前は言った。「試合中に文章を聞いてる暇はない。三音だ。名前と、動詞。それだけ」


「三音」


「あと、早く言え。起きてからじゃ遅い。起きる前だ」


 走はそれを、頭の中で書き留めた。


 その週の紅白戦で、走はやってみた。


 やってみて、できないことが分かった。


 上がるとき、声を出そうとする。喉が動く。だが言葉が出る前に、走は次のことを考えている。誰に、何を、どのタイミングで言うか。考えているうちに、その場面が終わる。


 三本目でやっと出た。


「大村さん、右をお願いします」


 声は届いた。


 大村は少しのあいだ走のほうを見て、それから「お、おう」と言った。


 その一往復で、二秒かかった。


 二秒あれば、相手はもう走っている。


 練習のあと、財前が言った。


「聞こえたけど、長い」


「長かった」


「あと、遅い」


「遅かった」


「分かってんじゃねえか」


「やり方が分からない」


「三音だって言ったろ」


 三日目の夜、走は食堂で江口の向かいに座った。


 江口はいつものように喋っていた。走はいつものように半分しか分かっていなかった。


 分かる場所まで待って、走は短く言った。


「それ、面白いのか」


 江口が顔を上げた。


「え?」


「その話」


「面白いよ!」


 江口はそこから五分喋った。


 走は五分聞いた。


 中身は、やはり半分しか分からなかった。だが、五分喋らせるのに必要だったのは、六文字だった。


(――こっちも、短くていいのか)


 走はそれを、いままで一度も試したことがなかった。


 正確に喋ろうとして、正確に喋れないから黙る。ピッチでやっていたことと、同じことを食堂でもやっていた。


 三音でいい。


 翌日から、走は三つだけ決めた。


 上がる。戻る。任せた。


 主語も敬語も理由も、全部落とした。三音か、四音。


 ただし、誰に言うかは決めた。決めないと、誰も引き受けないからだ。


 最初は、自分の声が大きすぎる気がした。


 二日目。走が上がりながら「大村、右!」と言った。


 大村が半歩早く動いた。


 その半歩で、相手のクロスが一つ早く切れた。


 走は戻りながら、大村の背中に言った。


「助かった」


 大村が振り返って、少し驚いた顔をした。


「お、おう」


 三日目に、相馬が逆サイドから同じ三語を返してきた。


「東、戻る!」


 走はそれを聞いて、足の向きを先に変えた。


 変えてから、驚いた。


 この人がこちらへ声をかけてきたのは、三年で初めてだった。


 練習のあと、相馬が水を飲みながら言った。


「言ってくれると、こっちも言いやすいわ」


「……はい」


「あと、お前の『戻る』、たぶん一秒早い。助かる」


 走は自分の首の後ろを触った。


 熱かった。


 一週間後、眞鍋がまた来た。


「東さん、三十一回です」


「……そうですか」


「平均の半分ですけど、四回よりはましです」


 眞鍋はタブレットを閉じた。


「あと、右からの失点、今週ゼロです」


 走は少し黙って、それから言った。


「大村さんが、半歩早く出ました」


「知ってます。撮ってるので」


「相馬さんも、返してくれました」


「それも知ってます」


 眞鍋は少し笑って、タブレットを胸に抱え直した。去年、走の走行データを突き出してきたときと、同じ抱え方だった。


「東さん自身の守り方は、先月から何も変えてません」


 眞鍋は言った。


「変わったのは、東さんの隣の人たちです」


 走は、その言い方を、しばらく反芻した。


 この三年、走は自分の身体を作った。自分の眼を磨き、自分の設計を積んできた。


 積んだものを、走は二人には渡してきた。海には手を上げて、財前には五メートルを頼んだ。


 二人までは、届いた。


 三人目からが、届いていなかった。


 渡すために必要だったのは、身体でも設計でもない。


 三音の言葉と、名前だった。


(――出せるのに、出さなかった)


 走はそれを、正確に認めた。


 喋る回路がないのではない。


 通じる相手にだけ喋ることに、慣れていただけだ。


 その夜、走はノートを開いた。


 ――八十分で四回。


 書いてから、しばらくペンが動かなかった。


 高山では、走は普通に喋っていた。


 空き地には六人しかいなかった。四対四で、全員が全員の位置を常に見ている。アカネは、走が呼ぶ前に動いていた。六歳のころから同じ土の上で蹴ってきた相手だ。説明はいらない。


 いちばん遅く来たリクでさえ、二年以上ある。しかもその二年、走はあの脚に毎日触っていた。言葉より先に、身体のほうを知っている相手だった。


 走はあの何年かで、一度も「まだ通じない相手に、一秒で伝える」ということをしていない。


 それから、もう一つあった。


 走が六十八年やってきたのは、医者の指示だ。


 正確で、根拠があって、相手はそれに従った。従わない相手がいなかったからだ。相手は患者で、走は医者だった。


 ピッチの上は、どちらとも違う。


 十一人いて、半分は二年かけていない相手で、全部が一秒で終わる。


 必要なのは、正確な指示ではない。


(――間に合う言葉か)


 走はその一行を書いた。


 書いてから、その下にもう一行足した。


 ――大村。相馬。


 二人の名前を書いたのは、この一週間で覚えたからだ。


 覚えたのは名前ではない。名前を呼ぶと返ってくる、ということのほうだった。


 走はペンを置いて、電気を消した。


 明日も右に立つ。


 立って、名前を呼ぶ。

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