第89話 上では標準
その日の練習で、背番号が配られた。
用具係の二年が、段ボールから一枚ずつ出して名前を読み上げる。走の番が来た。
「東さん」
「はい」
渡されたのは、二番だった。
走はそれを、しばらく手の中で見ていた。
布の厚みも、生地に縫い込まれた糸の目も、二年前と同じだ。違うのは、数字が一つ減っていることだけだった。
二十二番は、走のほうが覚えられる側の番号だった。
二番は、違う。
右サイドバックの番号だ。名簿を見なくても、この番号を着ている人間がどこに立つかを、誰でも知っている。
場所が、番号のほうに書いてある。
走は着替えのとき、胸の紋章を一度だけ指でなぞった。
二年前、ガラスの扉の外から見た形だ。
消灯のあと、走は机の灯りだけをつけた。
引き出しから、中一の十二月のノートを出す。
――刈り取る手。
その下に、当時の走が要素を三つ書いている。体重。地面を押す力。当たる直前に身体を固める速さ。
三つのうち、当時できたのは三つ目だけだった。
いま、三つとも揃っている。
走は新しいページに書いた。
――五月十九日。刈り取る手、獲得。
書いてから、しばらくそれを見ていた。
二年ぶんの行が、この一行に集約されている。
走はその満足を、そのまま少し置いておいた。
置いておいてから、ペンを持ち直した。
その下に、もう一行足した。
――上では標準。
書いた瞬間に、胸のあたりが少しだけ冷えた。
書いたのは事実だからだ。
空になった相手からボールを奪う。この年代では、走にしかできない形かもしれない。だが上のカテゴリーでは、それは特別なことではない。
黒木岳は、走が削り切っても平然と立っていた。あれが上へ行くときの、標準の身体だ。
(――また、これか)
走はそれを、三度目に思った。
一度目は、中一の四月だった。
高山で積んだものは、名古屋でも通じた。入団して十日目に対面を抑えたのも、紅白戦で岳の脚を一度だけ間に合わなくしたのも、あの空き地で覚えた読み方だ。
通じた。通じたのに、席は来なかった。
一人で四人を管理する読み方は、十一人の中では一枚ぶんにしかならない。通じることと、勘定に入ることは別だった。
二度目は、九十分落ちない身体だった。
中一の走にとって、それは唯一の武器だった。財前にも岳にも勝てないなかで、それだけが走の手にあった。
中二の秋に、それは武器のまま勝ちに繋がった。だがカップ戦の相手の左ウイングも、八十分は走っていた。上へ行けば、落ちないことは前提になる。
そして今日、三度目だ。
刈り取る手を手に入れた瞬間に、走はそれが上では標準だと知っている。
走はペンを置いて、天井を見た。
これは、たぶん一生続く。
走が何かを手に入れると、その瞬間に、それが次の階では前提条件になる。
登った天井が、次の階の床になる。
床になるということは、足をつけて立てるということでもある。
高山で覚えた読み方は、消えていない。九十分落ちない身体も、なくなっていない。全部、いまも走の脚の下にある。その上に、今日また一枚積んだ。
(……終われないな、これ)
走はその形を、はっきり理解した。
理解して、少し笑った。
嫌な気持ちではなかった。
前の生の走は、終わらされた。
まだ走れるのに、確かめる前に蓋をされた。あのとき走の天井は、他人が決めた。
いまは違う。
走の天井は、走が登るたびに上がっていく。上がるから、終わりが来ない。
終わりが来ないというのは、途中で終わらないということでもある。
走が前の生でいちばん欲しかったのは、それだった。
走はノートを閉じかけて、もう一行だけ足した。
――中三のうちに、次を見つける。
刈り取る手の次に、何が要るか。
走にはまだ分からなかった。
分からないのは、走がまだそこへ行っていないからだ。上のカテゴリーに立って、そこで通用しないものを一つずつ数えるまで、次の設計は書けない。
だから、まず上がる。
上がることが、次の設計図を書くための条件になっている。
早く上がりたい、と走は思った。
翌朝、走は江口と食堂で会った。
江口は三年になっても江口だった。相変わらずよく喋り、朝はいつも最後に起きてくる。
「東くん、昨日の紅白戦、あの三年から獲ってたよな」
「見てたのか」
「見てた見てた。あれ、すごくない?」
走は少し考えた。
すごくない、と言いかけて、やめた。
「……うれしかった」
「え」
「二年狙ってた。中一の十二月から」
「まじで」江口はパンを持ったまま固まった。「そんな前から?」
「そんな前からだ」
「うわ、こわ」
江口は笑って、それから言い直した。
「いや、こわくないわ。……いいじゃん、それ」
「何がだ」
「うれしいって言うの、いいじゃん。東くん、あんま言わないし」
「言った」
「聞いた」
江口はパンをかじって、それから「おれ二年とか覚えてらんない」と言った。
走も小さく笑った。
この男は、そのままでいい。
その日の練習で、走は右サイドバックに立った。
三年になって、この席は走のものになっている。
背中には、二番があった。




