第88話 刈り取る手
五月の紅白戦だった。
走の対面は、同じ三年の大柄な男だった。
二年のときから、走がずっと苦手にしてきた相手だ。背が高く、幅があり、身体を当ててくる。
走は去年、この男に何度も肩から弾かれている。
一六三センチと、一七六センチ。十三センチの差は、去年よりは縮んでいた。それでも、まだ十三センチある。
前半、走はいつもどおりに削った。
外を半歩空ける。相手が縦へ出る。走は追わずに、行き先だけを最後に潰す。抜けそうな道が、毎回、直前で閉じる。
相手は身体で押し切ろうとして、そのたびに一段強く踏んだ。
六本目で、踏み込みが浅くなった。
九本目で、走の前に来なくなった。
後半の十分で、その男の脚は空になっていた。
ここまでは、去年と同じだった。
いつもここで、走の仕事は終わる。
削るところまでは、できる。相手を止めることも、来させなくすることもできる。
だが、自分より大きい相手に正面から肩を入れて、そのまま残って、ボールを自分のものにして運んだことが、走には一度もない。
中一の十二月、走は岳の脇腹へ三度入って、三度とも自分のほうが飛んだ。三月には足の甲で球に触れて、吠えた岳に奪い返された。去年のカップ戦では、削り切った相手のボールを海が拾った。
いつも、最後の一手を他人に渡している。
(――今日、獲る)
走は自分にそう言った。
言ってから、少しおかしくなった。
言って獲れるなら、二年前に獲っている。
後半十四分、その一本が来た。
空になった男が、それでも縦へ持ち出そうとした。
脚は動いていない。判断だけが、まだ前を向いている。疲れた選手がいちばんやりがちな形だ。
走は迷わなかった。
肩から入った。
角度は、中一の十二月と同じにした。速さも同じだ。あのとき走は三度やって、三度とも弾かれた。
変えたのは、走の身体だけだった。
一六三センチ、五三キロ。二年前は、一四八センチ、四〇キロだった。
十五センチと、十三キロ。
流れなかった。
接触した瞬間、走の身体が止まった。止まって、相手の身体が半歩ぶん動いた。
走の足が、ボールに届いた。
届いて、押し出した。
ボールが二人のあいだから、走の側へ転がり出た。
走はそれを、自分の足で運んだ。
誰にも渡さなかった。
二歩、三歩と前へ出て、それから顔を上げた。
顔を上げてから、走は自分がその先を考えていなかったことに気づいた。
この形からの続きを、走は一度も設計していなかった。
肩から入って、残って、そのまま自分の足で運ぶところまで来たことが、なかったからだ。
「東! 前!」
海の声だった。
走は前へ運んで、海へ渡した。
海が受けて、一手で前へ通した。それがどうなったかは、走は見ていなかった。
走は自分の足元を見ていた。
右のスパイクの外側に、いま押し出したときの芝がついている。
それだけの、なんでもない一本だった。
紅白戦の、後半十四分の、一つの奪取。
誰も何も言わなかった。当たり前の一本だからだ。
(――獲った)
走は自陣へ戻りながら、自分の中でそれを確かめた。
確かめたとたん、肩から下に熱が来た。
中一の四月から、二年が過ぎている。
抜かれ続けて、燃料を数えた。十二月に削り切って、三度弾かれた。三月にボールへ触れて、奪い返された。
中二の八月に、順番を破って、三日で戻した。
カップ戦で削り切って、拾ったのは海だった。
そして今日、走は自分で獲った。
やり方は、何一つ変えていない。
読み方も餌の撒き方も、間合いの詰め方も、中一の四月と同じだ。二年、走は同じことをやり続けている。
変わったのは、最後に手を伸ばす側の身体だけだった。
九ヶ月動かなかった数字。一キロだけ増えた体重。輪の外で回した自転車。十キロから始めた重り。三分の休憩。
誰にも見えなかったものが、いま一本の奪取になった。
走はもう一度、対面を見た。
まだ十五分ある。
(――もう一回、できるか)
やってみたくなった。それが、いまいちばん強い気持ちだった。
二本目は、来なかった。相手が走の側へ持ち出さなくなったからだ。
それも、走の仕事のうちだった。
紅白戦が終わって、財前が横を通った。
「お前、さっき獲ったろ」
「獲った」
「あの人から?」
「あの人からだ」
財前は少しのあいだ、走の肩のあたりを見た。
「デカくなったな、お前」
「十五センチ伸びた」
「知ってる」
「知ってるのか」
「毎日隣で寝てんだよ」
財前はそれだけ言って、行った。
走はグラウンドの端に座った。
スパイクを脱いで、右足を見た。
外側が、少し擦れている。
二年前、この足は一四八センチの身体の先についていた。あのとき走は、岳の脇腹に肩を入れて、三度とも自分のほうが飛んだ。
あの日、走はノートにこう書いた。
――刈り取る手が、ない。
その下に、走は今日の行を書き足すことになる。
走はスパイクを持ったまま、しばらく座っていた。
名古屋の五月の風が、汗の乾いた首筋を通っていった。




