第87話 三年目
三月の終わりに、ユース昇格が発表された。
三年三十人のうち、上がったのは六人だった。
右サイドバックの先輩の名前は、なかった。
発表の紙が貼られた廊下に、走は行かなかった。行っても意味がないからだ。誰が上がったかは、走が見なくても、その日のうちに全員が知る。
夕方、走は用具室でボールを片付けていた。
去年の秋に、あの人と二人になった場所だ。
あの日、この人は「おれは上がらん」と言った。うすうす分かっていた、とも言った。分かっていたことが、今日、紙になった。
走はボールを籠へ入れながら、自分の手が少し止まっているのに気づいた。
走はこの一年、あの席を取りにいった。
取った。
そして今日、あの人はここを出ていく。
走が取ったから出ていくのではない。走がいなくても、あの人は上がれなかった。それは分かっている。分かっていて、走は自分の中の何かが片付かないままなのを感じた。
走が一年半で覚えたことの一つは、正しさが誰かを傷つけるということだった。
小六の準決勝で、リクを守った。守って、リクの中に二年半消えない澱を作った。
今年、右の席を取った。取って、あの人の最後の一年を短くした。
どちらも正しかった。
正しくても、片付かない。
片付けようとするのが、たぶん間違っている。
四月になった。
新しい一年が入ってきて、走は三年になった。
二〇三号室に、走と財前と江口が残った。三人とも、去年と同じベッドで寝ている。
朝の食堂で、走はまた列の端に座っている一年の隣に座った。
二年前、走がそこにいた。
去年、走は隣に座って、飯の話しかしなかった。
今年もそうした。
違うのは、座るまでに迷わなかったことだ。
去年は、盆に持っていく皿を選ぶふりをして、三十秒立っていた。今年は、空いている席がそこにあったから座った。
その一年生は、走を見て少し固まってから、「おはようございます」と言った。
「おはよう」
「……あの、東さん、ですよね」
「東だ」
「背番号2の」
「まだ配られてない」
「あ、そうですか」
それで会話は途切れた。
途切れたまま、走はその隣で味噌汁を飲んだ。
去年の走なら、この沈黙を数えていた。今年は数えなかった。
数えないことが、走にとっての一年ぶんの差だった。
新シーズンの初戦のメンバー表が貼られた朝、走は輪の後ろからそれを見に行った。
右サイドバックの欄に、東走と書いてあった。
走はその名前を、しばらく見ていた。
二年かかった。
去年の四月、走は同じボードの前で同じ場所を探して、そこに自分の名前がないことを知った。
あのとき走は、視界の端が冷えた。
今日は、冷えなかった。
かわりに、腹の底が温かくて、同じくらい重かった。
欲しかったものを、手に入れた。手に入れたということは、ここから先、右で起きたことは全部走のものになるということだ。
海が隣に立った。
「取ったな」
「……はい」
「一年遅かったな」
「はい」
「その一年で、お前は何を積んだ」
走はその問いに、少し考えてから答えた。
「九センチと、八キロです」
海は短く笑った。
この男が声を出して笑うのを、走は初めて聞いた。
「上等だ」
「氷室さんは」
「八センチ。体重は聞くな」
「聞きます」
「三キロだ」
「少ないですね」
「お前、いま俺に喧嘩売ったか」
「事実です」
「食え、って言うんだろ」
「食ってください」
「言うと思った」
海は行きかけて、振り返った。
「一六三か」
「三です」
「まだ抜かれてるぞ、俺に」
「抜きます」
「抜け」
その日の練習後、走はグラウンドの端に立った。
二年前、走はここで隣のピッチを見た。
中三の実戦をやっていて、その中に岳がいた。走はその背中を見て、眼中に無いという言葉の重さを受け取った。
いま、そのピッチには誰もいない。
岳はユースにいる。二年目だ。上ではあの身体が標準になる。あの人がいまどうしているかを、走は知らない。
次はユースで待ってる、と言われた。
あと一年で、走はそこへ行く。
行けるかどうかは、この一年で決まる。
走はノートを開いた。
中三の四月の行を書いた。
――一六三センチ。五三キロ。
その下に、走はこの一年でやることを書いた。
一つ。右サイドバックとして、八十分を通しで戦う。
二つ。継ぎ目が落ち着くのを待って、秋から本格的に負荷を上げる。
三つ。空にした相手から、ボールを奪う。
三つ目のところで、走はペンを止めた。
中一の十二月に、走は同じことを書いた。
――刈り取る手。
あれから一年四ヶ月、走はまだそれを持っていない。カップ戦で相手を削り切ったとき、走が奪ったのは燃料だけだった。ボールを奪ったのは、走ではなく味方だった。
削るところまでは、できる。
最後の一手は、まだ他人に渡している。
走はその行の下に、線を引いた。
――今年、自分で獲る。
窓を開けると、四月の名古屋の風が入ってきた。
高山より二週間ぶん早い春だ。二年前、走はこの街の匂いに戸惑った。いまはもう、戸惑わない。
この一年で、走は右の席を手に入れた。
走はページを伏せて、電気を消した。
三年目が始まる。




