第86話 八割の身体
一月の朝、体育館で海が言った。
「戻った」
走は顔を上げた。
「どこまで」
「八割」
海は自分の右膝を、一度だけ叩いた。
「去年の秋に落ちる前の、八割だ。九割じゃない。八割」
《診断/氷室 海・中二》
出力 ――― 去年の秋の、八割。
寸法 ――― 別物。同じ身体には戻らない。
左ターン ――― 秋に残っていた半拍が、消えている。
到達 ――― 新しい脚で、前と同じ仕事ができる。
「……揃いましたね」
走は言った。
「秋に、左が半拍遅いと言いました。あれが、最後まで残ってた」
「消えた」
「消えてます」
二人はしばらく、何も言わずに立っていた。
走は自分の胸の中を確かめた。
七ヶ月だ。六月の朝に、この人は片脚で二十秒立てなかった。
「……よかったです」
走は言った。
言ってから、それが今日いちばん言いたかったことだと気づいた。
海は短く息を吐いて、床に座った。
「正直に言うと、十割には戻らんと思う」
海はそう言った。
「骨が伸びたぶん、前の身体の感覚には二度と戻らない。戻ったんじゃなくて、新しい身体で、前と同じくらい動けるようになっただけだ」
走はうなずいた。
そのとおりだった。
走が七ヶ月かけて渡したのは、失われたものを取り戻す方法ではない。新しい寸法の身体に、同じ仕事をさせる方法だ。
結果として同じ場所に届いても、中身は別物になる。
そして、その中身を毎朝作ったのは、走ではなかった。
「毎朝、休まなかったですよね」
「休んだら、線が切れるって言われたからな」
「半分でいいとも言いました」
「半分にした日は、三日ある」
海は淡々と言った。
「数えてたんですか」
「お前が数えるからだ」
走は笑った。
「文句を言ってるんじゃない」
海が続けた。
「八割で足りる。俺は走る仕事をしてない。半歩早く落ちてこられれば、それでいい」
海は膝から手を離した。
「言いたいのは、そこじゃない」
海はしばらく黙って、それから言った。
「小学のとき、俺は一回、身体を捨てた」
走は黙って聞いていた。
「頭で生きればいいと決めて、身体のことは考えるのをやめた。考えるのをやめてから、二年半、俺は一度も自分の脚を見てない」
海は自分の掌を見ていた。
「去年、二回目が来たとき、俺は同じことをやろうとした。もう一回捨てようとした」
「……」
「捨てなかったのは、お前が、方法があると言ったからだ」
海は走を見た。
「方法があると知ってるのと、知らないのとでは、まったく違う」
走はその一言を、しばらく受け取れなかった。
方法があると知っていること。
走が抱えているのは、六十八年ぶんの医学だ。それを走は、ずっと「使える道具」として数えてきた。
この人が言っているのは、そこではない。
方法があると知っていれば、人は捨てずに済む。
知らなければ、捨てるしかない。
道具の話ではなく、選択肢の話だった。
(――アカネにも、あるのか)
走はその考えを、すぐに畳んだ。
アカネの身体に方法はない。二次性徴の時間差を、走の医学は動かせない。
だが、身体以外の場所に方法があるかどうかは、走には分からない。
分からないものを、走は渡せない。
「東」
海が立ち上がった。
「来年、右はお前だな」
「……分かりません」
「分かってる。三年が抜けるし、監督がお前を使い始めた」海は淡々と言った。「その前提で、一つ言っておく」
「はい」
「俺と組むなら、俺は八割だ。去年みたいには埋められん」
走は顔を上げた。
「上がるとき、いままでは全部俺が落ちてた。来年は、半分はお前が自分で戻れ」
「……十二秒あれば、戻れます」
「十二秒か」
「計ってあります」
「じゃあ、俺は十二秒ぶん持てばいい」
海は壁のほうを向いたまま、続けた。
「そのかわり」
「はい」
「盤面は、去年より正確になった。動けなくなったぶん、見えるようになった」
走はその言い方に、この男の一年を見た。
身体を八割で受け入れた男が、残りの二割を、別のもので埋めている。
二月に、三年が引退した。
最後の試合に、右サイドバックの先輩は出なかった。
膝が間に合わなかった。二ヶ月と言われた膝に、残っていたのは一ヶ月だった。
その人はベンチの端に、私服で座っていた。
走は右サイドバックで先発した。八十分出て、一度も破られなかった。
試合は勝った。
試合のあと、走はベンチの前を通った。
通るつもりはなかった。荷物がそこにあっただけだ。
「東」
先輩が呼んだ。
「はい」
「今日、よかったよ」
走は足を止めた。
「六十分くらいの、あの寄せ方。俺、あれできないんだよな」
先輩は膝を伸ばしたまま座っていた。
「ずっと考えてたんだ。なんでお前はあれができて、俺はできないのか」
走は何も言えなかった。
「で、分かった」
先輩は言った。
「お前、疲れてないんだよ」
走の指先が、止まった。
「俺、あの時間はもう脚が終わってて、判断が雑になってた。お前は終わってない。だから同じ場面で、違うことができる」
先輩は自分の右膝を、軽く叩いた。
「なんで俺が終わるのか、三年間分からなかった。……最後まで分からなかったな」
走はそこで、口を開きかけた。
九月の四十本のことを、言おうとした。
休憩が四十秒だったこと。三十本目からフォームが崩れていたこと。膝の外側に負担が寄っていたこと。そして走が、それを四ヶ月前から見ていたこと。
言えば、この人は最後に一つ、答えを持って帰れる。
言えば、走は楽になる。
走は、口を閉じた。
いま言えば、楽になるのは走のほうだ。
その理屈は正しい気がした。正しい気がすることが、走には信用できなかった。
九月にも、走は正しい理屈を二つ並べて黙っている。
「……はい」
走はそれだけ言った。
先輩は少し笑って、松葉杖を取った。
「じゃあな。……あの右、頼むわ」
先輩が背を向けた。
走は、そこで声を出した。
「先輩」
先輩が止まった。
「秋のカップ戦で、俺に渡してくれたやつ」
「あ?」
「内に一回置いてから来る、ってやつです」
走は言った。
「あれ、俺は数字で知ってました。先輩は四十分、自分の脚で確かめて、それを俺に渡した」
「……それ、言う?」
「一本目が止まったのは、渡してもらったからです」
先輩はしばらく、走を見ていた。
それから、松葉杖を一度、持ち直した。
「……可愛くねえな、ほんと」
「すみません」
「褒めてんだよ」
先輩は笑った。
「東。そういうの、ちゃんと言えよ。これから」
「……はい」
「じゃあな」
今度こそ、先輩は行ってしまった。
走はその背中を、見えなくなるまで見ていた。
言えたのは、渡されたことへの礼だけだった。
背中が角を曲がってからも、走はしばらく動かなかった。
閉じた口の内側に、渡せなかった答えがまだ残っている。
三月の終わり。布団へ入る前に、走はペンを持った。
――一六二センチ。五二キロ。
中二の三月の数字だった。
一年前の四月は、一五三センチ、四四キロ。九センチ、八キロ。
中一の一年は、ほとんど動かなかった。
中二の一年で、全部動いた。
走はページをめくって、去年の四月の行を探した。同じ数字が縦に何行も並んでいるページだ。
その先に、今年の行が続いている。
動かない一年と、動いた一年が、同じノートの上に並んでいた。
走はそのページを、少しのあいだ見ていた。
動いた一年だけを見た人には、走が急に伸びたように見える。
動かなかった一年を、走だけが持っている。




