第85話 四十本
一月の練習で、先輩が膝を落とした。
接触ではなかった。
切り返しの途中で、右膝が内へ落ちて、そのまま芝に手をついた。誰も触っていない。誰も見ていなかった。走だけが、その一連を最初から見ていた。
走は走った。
着いたときには、先輩は仰向けになっていた。膝を抱えていない。抱えられないほうへ、両手が浮いている。
「触ります」
走は返事を待たずに、膝の外側に指を当てた。
熱がある。
押すと、先輩の身体が跳ねた。膝の外側の、骨と骨のあいだの一点。走の指がその場所を正確に見つけたことに、先輩は気づいていない。
膝の内側は、押しても痛くない。曲げ伸ばしはできる。
(――靭帯じゃない)
走の頭が、勝手に候補を絞った。
膝の外側を通る太い帯が、骨の出っ張りを何千回もこすって、そこが炎症を起こしている。今日壊れたのではない。今日、限界を超えただけだ。
積み上がっていたのは、秋からだった。
コーチが走ってきて、先輩を担いでいった。
走はその場に残った。
残って、自分の指先を見た。
いま触った場所は、四ヶ月前に走が診断した場所と、一ミリも違わなかった。
九月の終わりだった。
全体練習が終わって一時間、誰もいないグラウンドで、先輩は一人で切り返しを繰り返していた。四十本。休憩は四十秒。三十本目からフォームが崩れて、崩れた形で膝の外側に負担が寄っていた。
走はそれを二分見て、診断を終えた。
診断を終えて、何も言わずに引き返した。
その夜、走はノートに書いた。
――右の先輩。切り返し四十本。休憩四十秒。膝の外側。
――言えない。
――年が上だから。
――俺があの席を狙っているから。
走は、その四行目を四ヶ月ぶりに思い出した。
思い出して、動けなくなった。
言わなかった理由が、二種類あった。
一つは、言っても直らないというものだ。
癖は意識では直らない。走はそれを知っている。江口の膝の角度を半分にするのに、走は一年半かけた。遊びの形にして、皿を動かして、それでようやくだった。
九月の時点で走が「その走り方は危ない」と言ったところで、あの人は「ああ」と答えて、翌日も同じ四十本をやっただろう。
それは、たぶん本当だ。
言っていたら防げた、とは走にも言えない。
もう一つは、そうではなかった。
言う権利がない、と走は思っていた。二年の走が、三年の先輩の身体に口を出すのは筋が通らない。ましてその席を狙っている人間が言えば、それは助言ではなくなる。
これも、たぶん本当だ。
そして走は、その二つを同じ重さで並べていた。
(――並べたのは、俺だ)
走はそこで、はっきりそれを認めた。
二つ目がなければ、走は一つ目を疑ったはずだ。
言っても直らないなら、直る方法を探せばよかった。江口にやったように、遊びの形にすればよかった。三年生を巻き込む口実は、いくらでも作れた。走はこの何年か、そういうやり方だけを覚えてきた。
探しさえ、しなかった。
防げたかどうかは、いまとなっては誰にも分からない。
走が問われているのは、そこではない。
気づいたことを伝えるかどうかの判断に、走は自分の得を混ぜた。
膝が壊れればいいと思ったわけではない。そんなことは思っていない。
思っていなくても、勘定には入っていた。あの席が空くことを、走はずっと数えていた。数えていた人間が「言う権利がない」と判断したのなら、その判断はもう中立ではない。
診断は正しかった。
四ヶ月前の走の眼は、一ミリも外していない。あの膝がどこで壊れるかを、走は正確に見ていた。
正確に見て、黙った。
走がこの何年かで覚えたのは、言わずに人を動かす方法だ。皿の位置を変える。遊びを仕掛ける。数字を人に取らせる。
その方法を、走はこの人にだけ、一度も使わなかった。
二日後、先輩が松葉杖で寮に戻ってきた。
走は廊下でそれを見た。
見て、逃げようとした。逃げようとした自分に気づいて、足を止めた。
「……先輩」
「おう」
先輩は普通の顔をしていた。
「大したことないってさ。二ヶ月で治るって」
「……そうですか」
「まあ、そのころには引退してるけどな」
先輩は笑った。
走は何も言えなかった。
「東」
先輩が言った。
「なんか、顔色悪くない?」
走は自分の顔に手をやった。
「お前、体調管理うるさいくせに、自分がいちばん無理してんじゃないの」
先輩は松葉杖を持ち直した。
「寝ろよ。ちゃんと」
それだけ言って、部屋へ入っていった。
走は廊下に残った。
あの人は、走を責めなかった。
責める材料を持っていない。走が何を見ていたかを、あの人は知らない。知らないまま、走の顔色を心配して部屋に入っていった。
責められたほうが、まだ楽だった。
部屋に戻って、走は引き出しからノートを出した。
九月の四行を、もう一度読んだ。
消したくなった。
消さなかった。
消せば、走がやったことが記録から消える。この一年、走はずっとそう決めてきた。動かない数字も、下がった体重もそのまま残した。順番を破った日も書いた。
走はペンを持って、その下に一行だけ書いた。
――一月十七日。壊れた。
書いてから、走はしばらくその二行を見ていた。
九月の行と、一月の行のあいだに、四ヶ月ぶんの日付が並んでいる。
その四ヶ月、走は毎日この人と同じグラウンドにいた。
毎日、言えた。
一日も言わなかった。
走は灯りを消した。
消してから、自分の設計に穴があることに気づいた。
走の設計は、他人の身体を良くする。良くするのは、走が「良くしていい相手」だと判断した相手だけだ。
判断しているのは、走だ。
誰を良くして、誰を良くしないかを、走が決めている。
その基準の中に、走自身の得が入り込むことを、走はいままで一度も自覚していなかった。




