↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
85/140

第85話 四十本

 一月の練習で、先輩が膝を落とした。


 接触ではなかった。


 切り返しの途中で、右膝が内へ落ちて、そのまま芝に手をついた。誰も触っていない。誰も見ていなかった。走だけが、その一連を最初から見ていた。


 走は走った。


 着いたときには、先輩は仰向けになっていた。膝を抱えていない。抱えられないほうへ、両手が浮いている。


「触ります」


 走は返事を待たずに、膝の外側に指を当てた。


 熱がある。


 押すと、先輩の身体が跳ねた。膝の外側の、骨と骨のあいだの一点。走の指がその場所を正確に見つけたことに、先輩は気づいていない。


 膝の内側は、押しても痛くない。曲げ伸ばしはできる。


(――靭帯じゃない)


 走の頭が、勝手に候補を絞った。


 膝の外側を通る太い帯が、骨の出っ張りを何千回もこすって、そこが炎症を起こしている。今日壊れたのではない。今日、限界を超えただけだ。


 積み上がっていたのは、秋からだった。


 コーチが走ってきて、先輩を担いでいった。


 走はその場に残った。


 残って、自分の指先を見た。


 いま触った場所は、四ヶ月前に走が診断した場所と、一ミリも違わなかった。


 九月の終わりだった。


 全体練習が終わって一時間、誰もいないグラウンドで、先輩は一人で切り返しを繰り返していた。四十本。休憩は四十秒。三十本目からフォームが崩れて、崩れた形で膝の外側に負担が寄っていた。


 走はそれを二分見て、診断を終えた。


 診断を終えて、何も言わずに引き返した。


 その夜、走はノートに書いた。


 ――右の先輩。切り返し四十本。休憩四十秒。膝の外側。


 ――言えない。


 ――年が上だから。


 ――俺があの席を狙っているから。


 走は、その四行目を四ヶ月ぶりに思い出した。


 思い出して、動けなくなった。


 言わなかった理由が、二種類あった。


 一つは、言っても直らないというものだ。


 癖は意識では直らない。走はそれを知っている。江口の膝の角度を半分にするのに、走は一年半かけた。遊びの形にして、皿を動かして、それでようやくだった。


 九月の時点で走が「その走り方は危ない」と言ったところで、あの人は「ああ」と答えて、翌日も同じ四十本をやっただろう。


 それは、たぶん本当だ。


 言っていたら防げた、とは走にも言えない。


 もう一つは、そうではなかった。


 言う権利がない、と走は思っていた。二年の走が、三年の先輩の身体に口を出すのは筋が通らない。ましてその席を狙っている人間が言えば、それは助言ではなくなる。


 これも、たぶん本当だ。


 そして走は、その二つを同じ重さで並べていた。


(――並べたのは、俺だ)


 走はそこで、はっきりそれを認めた。


 二つ目がなければ、走は一つ目を疑ったはずだ。


 言っても直らないなら、直る方法を探せばよかった。江口にやったように、遊びの形にすればよかった。三年生を巻き込む口実は、いくらでも作れた。走はこの何年か、そういうやり方だけを覚えてきた。


 探しさえ、しなかった。


 防げたかどうかは、いまとなっては誰にも分からない。


 走が問われているのは、そこではない。


 気づいたことを伝えるかどうかの判断に、走は自分の得を混ぜた。


 膝が壊れればいいと思ったわけではない。そんなことは思っていない。


 思っていなくても、勘定には入っていた。あの席が空くことを、走はずっと数えていた。数えていた人間が「言う権利がない」と判断したのなら、その判断はもう中立ではない。


 診断は正しかった。


 四ヶ月前の走の眼は、一ミリも外していない。あの膝がどこで壊れるかを、走は正確に見ていた。


 正確に見て、黙った。


 走がこの何年かで覚えたのは、言わずに人を動かす方法だ。皿の位置を変える。遊びを仕掛ける。数字を人に取らせる。


 その方法を、走はこの人にだけ、一度も使わなかった。


 二日後、先輩が松葉杖で寮に戻ってきた。


 走は廊下でそれを見た。


 見て、逃げようとした。逃げようとした自分に気づいて、足を止めた。


「……先輩」


「おう」


 先輩は普通の顔をしていた。


「大したことないってさ。二ヶ月で治るって」


「……そうですか」


「まあ、そのころには引退してるけどな」


 先輩は笑った。


 走は何も言えなかった。


「東」


 先輩が言った。


「なんか、顔色悪くない?」


 走は自分の顔に手をやった。


「お前、体調管理うるさいくせに、自分がいちばん無理してんじゃないの」


 先輩は松葉杖を持ち直した。


「寝ろよ。ちゃんと」


 それだけ言って、部屋へ入っていった。


 走は廊下に残った。


 あの人は、走を責めなかった。


 責める材料を持っていない。走が何を見ていたかを、あの人は知らない。知らないまま、走の顔色を心配して部屋に入っていった。


 責められたほうが、まだ楽だった。


 部屋に戻って、走は引き出しからノートを出した。


 九月の四行を、もう一度読んだ。


 消したくなった。


 消さなかった。


 消せば、走がやったことが記録から消える。この一年、走はずっとそう決めてきた。動かない数字も、下がった体重もそのまま残した。順番を破った日も書いた。


 走はペンを持って、その下に一行だけ書いた。


 ――一月十七日。壊れた。


 書いてから、走はしばらくその二行を見ていた。


 九月の行と、一月の行のあいだに、四ヶ月ぶんの日付が並んでいる。


 その四ヶ月、走は毎日この人と同じグラウンドにいた。


 毎日、言えた。


 一日も言わなかった。


 走は灯りを消した。


 消してから、自分の設計に穴があることに気づいた。


 走の設計は、他人の身体を良くする。良くするのは、走が「良くしていい相手」だと判断した相手だけだ。


 判断しているのは、走だ。


 誰を良くして、誰を良くしないかを、走が決めている。


 その基準の中に、走自身の得が入り込むことを、走はいままで一度も自覚していなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。