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第84話 選んでいない

 後半の頭に、尾張が追いついた。


 右のコーナーからだった。海が蹴って、ニアで財前が競り勝った。頭で叩きつけたボールが、ゴールラインの内側で跳ねた。


 一対一。


 財前が両手を広げて、味方の輪に潰された。走もそこへ走った。


 財前が走の首に腕を回して、耳元で言った。


「お前のコーナーの立ち位置、今日よかったぞ」


「蹴ったのは氷室だ」


「うるさい。誰かが褒めてやってんだよ」


 走は笑った。


 同点で後半が始まった。ここからが試合だった。


 そこへ、ソラが入ってきた。


 前半は出ていなかった。青嵐は、この練習試合をリク中心で組んでいたらしい。


 風間空。


 走が視界に入れた瞬間から、その日の設計は半分意味を失った。


 ソラは何もしなかった。


 最初の十分、ボールに触った回数は四回だ。四回とも、簡単に隣へ渡した。走る回数も少ない。


 誰もマークにつかなかった。ついても意味がないからだ。


 走はその十分、ソラだけを見ていた。


 見て、去年よりもう一段、深いところに触れた。


 合宿で、走は一つ覚えた。


 相手が疲れると、選択肢が減って読みやすくなる。手数が減れば、次の一手は絞れる。


 この法則は、走の武器の土台だった。九十分落ちない身体と組み合わせて初めて、時間が経つほど走が強くなる。


 ソラには、効かない。


 去年、走はそれを「疲れて選択肢が減るのは、選ぼうとしている人間だけだ」と書いた。


 この男は、選んでいない。


 今日、走はその意味を、もう少し正確に掴んだ。


(――先に決めてないんだ)


 人は、ボールを受ける前に候補を作る。


 右へ運ぶ。中へ入れる。下げる。三つか四つの候補を作って、状況を見て一つを選ぶ。


 その候補を作る作業に、身体は燃料を使う。疲れると候補が減る。だから読める。


 ソラは、候補を作っていない。


 ボールが来て、そこで初めて何かをする。何をするかは、たぶん本人も直前まで知らない。


 候補を作らないから、疲れても減らない。


 減らないものは、読めない。


 十二分に、ソラが右へ流れてきた。


 走の前だ。


 一対一で、真正面から立つのは初めてだった。小六の準決勝も、去年の新人戦も、走はこの男を設計の中でしか見ていない。


 ソラは走を見て、少しだけ首を傾げた。


「あ」


 その仕草を、走は三度目に見た。


 小六の準決勝。中一の新人戦。そして今日。


 この三年で、三度目だ。三度とも、思い出さない。


「きみ、なんかさ」


 ソラは言った。


「毎回いるよね」


「……います」


「うん。なんか、いつも同じ場所にいる感じする」


 走の背中を、冷たいものが通った。


 この男は、走を覚えていない。名前も、去年のことも、たぶん何も覚えていない。


 それでも、走が「同じ場所にいる」ことだけは掴んでいる。


 走は自分の設計を、そのとき初めて外から見た。


 走がやっていることは、相手が行きたい場所に先に立つことだ。


 だからいつも、相手の行き先にいる。


 ソラから見れば、走は「いつも同じ場所にいる人」になる。


 覚えていないのに、そこだけ掴まれている。


 この男は人の名前も勝敗も覚えないくせに、自分の自由を邪魔するものの形だけは、身体で覚えている。


 ソラが仕掛けてきた。


 走の眼は、何も出さなかった。


 重心の傾きも、軸足の位置も、視えている。視えているのに、次が出ない。


 この身体は、いま傾いている方向へ行くとは限らない。傾いてから決めるからだ。


 走は動かなかった。


 動けなかった、というほうが正しい。


 ソラは走の横をすり抜けて、そのまま中へ入っていった。


 止められなかった。読めなかったのではない。読むものが、そこになかった。


 二十五分に、ソラが決めた。


 誰も触っていないボールが、その足の前へ転がってきて、そのまま入った。


 一対二。


 走はそのとき、逆サイドにいた。何もできなかった、というより、何が起きたのかを説明できなかった。


 残り十五分で、走は上がりはじめた。


 右を三本、続けて上下した。四本目に、青嵐の左が下がった。


 三十八分に、追いついた。


 こぼれ球を、レオがねじ込んだ。


 二対二。


 レオがそのままゴール裏まで走って、金網に指をかけて吠えた。財前が追いかけて、背中に飛び乗った。


 走はセンターサークルまで戻ってから、拳を一度だけ握った。


 負けていない。


 ソラのいるチームと、二対二だ。去年の秋は一対三だった。


 試合は、そのまま終わった。


 整列のあと、リクがすれ違いざまに言った。


「走。ソラ、どうだった」


「……止められなかった」


「だろうな」リクは笑った。「俺も味方だけど、たまに何してんのか分からん」


 リクは少し歩いて、それから振り返った。


「なあ。お前、あいつ止める気あるの」


 走はすぐには答えなかった。


「ある」


「へえ」


 リクの眼が、初めてこの日、面白がるものに変わった。


「じゃあ、俺より先に止めろよ。俺は無理だった」


「先に止める」


「言ったな」


「言った」


「あと」リクは足を止めた。「お前、後半うざかったわ。上がってくんな」


「上がる」


「上がんなって」


 リクは笑って、行った。


 走はその背中を見送った。それから、ソラを探した。


 ソラは最後に、走の前を通った。


 こちらを見もしなかった。


 走はその背中も見送った。


 一年半かけて、走は自分の武器を一つ完成させかけている。


 九十分落ちない身体で、相手を削り、脚が落ちたところを刈り取る。カップ戦で、それは勝ちに直結した。


 その武器が、この男には一ミリも届かない。


 削っても減らない。読んでも出てこない。


(――どうすれば、いい)


 走はその問いを、この日、初めて正面から立てた。


 答えは、まったく見えなかった。


 見えないまま、走はそれをノートに書いた。


 ――風間空。削っても減らない。読んでも出ない。


 その下に、一行だけ足した。


 ――読めないなら、読まなくていい形にするしかない。


 書いてから、走は自分でその意味が分からなかった。


 意味が分かるのは、四年先になる。

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