第82話 来ない相手
カップ戦の次の試合で、走はまた後半から出た。
先発ではなかった。
鬼塚は右サイドバックに、あの三年を先発で使った。走の交代は、後半の二十分だった。
二対〇でリードしている場面だった。
走はピッチに入って、いつもどおり対面を測った。
中三の左ウイング。速くはない。体格は普通。前半に二度、こちらの右を仕掛けて、二度とも止められている。
(――削れる)
走はそう判断した。
外を半歩空けて、餌を見せる。相手が縦へ出れば、走はその行き先を潰す。何本か繰り返せば、脚は落ちる。
走は、その形を作った。
相手は、来なかった。
最初の五分、走の側にボールが一度も来なかった。
十分経っても来なかった。
相手は逆サイドからしか攻めてこない。走の対面は中央へ寄って、そこでボールを受け、そのまま向こうへ流す。
走の前には、誰も立たなかった。
(――来ない)
当たり前だった。
二対〇で負けているチームが、堅い側から攻める理由はない。相手のコーチが走を見て判断したのかもしれないし、単に逆のほうが崩しやすかっただけかもしれない。
走はボールが切れた合間に、財前のところへ寄った。
去年の秋、走はこの男に五メートル寄ってもらったことがある。頼めば動く。それは分かっている。
「財前」
「なんだ」
「右に、誰も来ない」
「見てる」
「俺が前に出る。裏を」
「無理だ」
財前は前を向いたまま言った。
「九番、俺が付いてる。離れたら中央が空く」
走は相手の九番を見た。
一八〇近い。今日はそれ一枚に放り込む形で押してきている。財前が五メートル動けば、その一発で終わる。二点を守っているチームの中央は、動かせない。
「分かった」
「悪いな」
「いや」
走は自分の位置へ戻った。
去年できた頼み方が、今日は使えない。
頼み方が悪いのではない。この日の十一人の並びでは、その手が成立しないだけだ。
海はベンチにいた。走が上がって空けた裏を、黙って埋める人間が今日はいない。
だから走は、右サイドに立っていた。
二十分、立っていた。
試合は三対〇で終わった。三点目は、後半の四十分にレオが決めた。走はそのプレーに、一度も触っていない。
笛が鳴ると、レオが両手を上げて走ってきた。
「三点! おれ二点!」
「見てた」
「アズマ、なんか静かじゃない?」
「勝ったからいい」
それは本当だった。
三対〇は、いい勝ち方だ。前半のうちに二点取って、後半で締めた。鬼塚の言う「前半で折る」が、そのまま出た試合だった。
チームが勝ったことが、走はうれしかった。
うれしいまま、腹の底に別のものが残っていた。
走がこの二十分でやったのは、右を閉じておくことだけだった。
閉じておくのは、今日の仕事だった。二点を守る側で、財前は中央を離れられず、海はベンチにいる。走が上がって空けた裏は、その日の並びでは誰も埋められない。走はそれを確かめたうえで、上がらなかった。
それは判断だ。
判断は、数字には出ない。ボールに触った回数、四回。すべて味方への横パス。走行距離は、たぶん一・八キロ。
勝った。守り切った。そのうえで、走の武器は一度も使われていない。
三つは、同じ胸の中に並んで入っていた。
ロッカーへ戻る途中で、鬼塚に呼ばれた。
「東」
「はい」
「今日、なにをした」
走は、そこで少し考えた。
「右を閉じてました」
「それは見た」
鬼塚は腕を組んだ。
「閉じるだけなら、去年の三年でもできる。おれが聞いとるのは、そこにお前が何を足したかだ」
「……何も、足していません」
「そうだな」
「先週は、お前が試合を動かした。今週は動いとらん。なぜだ」
「相手が、来なかったからです」
「来なけりゃ、何もできんのか」
その一言が、走の中の何かを正確に突いた。
鬼塚は続けた。
「お前の勝ち方は、相手の脚を借りとる」
走は顔を上げた。
「相手が走って、相手が減って、そこをお前が拾う。先週はそれで勝ちを拾った。認める」
鬼塚は言った。
「だがな。借りる相手が来なけりゃ、お前は手ぶらだ」
鬼塚はそこで、一度だけ言葉を切った。
「今日は二点あった。二点あったから、お前は閉じとけばよかった。その判断は間違っとらん」
走は顔を上げた。
「〇対〇でも、同じことを言うか」
走は、何も言えなかった。
言えなかったのは、その通りだったからだ。
この一年半、走は自分の設計をずっと磨いてきた。
餌の撒き方。間合いの詰め方。燃料の数え方。刈り取るための身体。
どれも、相手が来ることを前提にしている。
来ない相手には、一つも効かない。
走はそれを、一度も考えたことがなかった。
「東。おれはな」
鬼塚は言った。
「前半で流れを決める選手が欲しいと言った。覚えとるか」
「はい」
「あれは、飛ばせという意味じゃない」
走は顔を上げた。
「相手に、こっちのやりたいことをやらせるという意味だ」
鬼塚は言った。
「前半で流れを決めるってのは、相手に選ばせんことだ。お前は逆をやっとる。相手に選ばせて、選んだ先で待っとる」
鬼塚はそこで、一度言葉を切った。
「待ってる奴は、来なけりゃ終わりだ」
鬼塚はそれだけ言って、背を向けた。
走はロッカーの前で、しばらく座っていた。
一年半、この人に外され続けてきた。
その理由を、走はずっと「思想が違うから」だと思っていた。今日勝ちたい人と、最後に勝ちたい人。時間軸の話だと、白石も言った。
違った。
この人は、走の設計の穴を、たぶん最初から見ていた。
走の武器は受け身だ。相手が動いてくれてはじめて働く。相手が動かなければ、八十分、正しく立っているだけの選手になる。
正しく立っているだけの選手は、リードがあるときには要る。今日は、実際に要った。
〇対〇から試合を動かすには、それだけでは足りない。
勝利至上主義の名将が、そういう選手を先発で使わない理由は、思想でも好みでもない。
どちらの試合になるかを、先に決められないからだ。
その夜、走はノートを開いた。
書くことは、決まっていた。
――来ない相手には、効かない。
書いてから、その下に長い時間をかけて、次の行を探した。
来ないなら、来させるしかない。
どうやって。
走の頭に、一つだけ浮かんだものがあった。
新人戦で、海に言われたことだ。
――お前が上がったら、その裏は俺が埋める。
あのとき走は、上がるのは攻めるためだと思っていた。
それだけではないのかもしれない。
走が上がれば、相手は走の裏を狙いたくなる。狙いたくなれば、こちらへ来る。
(――上がるのは、呼び戻すためか)
走はその一行を書いた。
――上がる。来させるために。
書いてから、今日の財前を思い出して、もう一行足した。
――誰が裏を埋められるかは、その日の十一人で変わる。
二行目のほうが、たぶん難しい。
いままで走は、相手が来る場所に先回りしてきた。
これからは、来る場所そのものを走が作って、そのうえで、その日の並びに合わせて誰が後ろを持つかまで組むことになる。
十二月の第二週に、青嵐との練習試合が組まれていた。
その日程を、走は十月から頭の隅に置いている。
あの試合で試す。
走はノートを閉じた。




