↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
81/140

第81話 覆す

 六十九分。左で相馬がボールを持ち、一度中央の海へ戻した。


 海が右へ長いボールを送った。


 走ではなく、走が空けた右の裏へ。


 走は、削りきったウイングの背後を一気に駆け上がった。


 相手の脚は、もう追ってこない。燃料は、走が全部使わせていた。


 走が右奥でボールに追いつく。


 中を見る。海はもう、次の絵の中央にいた。


 走の折り返しに、走り込んだ海がダイレクトで合わせる。


 ネットが、揺れた。


 一対一。


 ベンチが、跳ねた。


 海がこちらを向いて、右手を上げた。


 走はその手に、自分の手を合わせた。走ってきた勢いのまま、ぶつけるように合わせた。掌が鳴った。


 この一年、朝の体育館で何百回も見た手だ。


 走は自陣へ戻りながら、一度だけ息を吐いた。


 この一点は、四十分前から始まっている。


 相手のウイングが仕掛ける前に一拍置く癖を、眞鍋が数字で拾った。それを消せる立ち位置を、白石が鬼塚に見せた。走が十六分かけてその脚を空にした。四本目に抜かれた裏を、財前が埋めた。海が空いた場所を見つけて、そこへ送った。


 誰か一人の手柄ではなかった。


 走は去年の秋、海に背後を預けて上がったことがある。上がることが攻撃になるのは、もう知っていた。


 知らなかったのは、こちら側の数だ。


 ピッチの外で数字を撮っている人間がいて、それを監督の前に置いた人間がいて、走が抜かれた裏を黙って埋めた人間がいる。走が上がった四十メートルは、その全部の上に乗っていた。


(――こういう、ことか)


 一人で守るな、と海は言った。


 あの言葉の底は、たぶんまだ先がある。


 流れは、もう完全にこちらへ来ていた。


 削られた相手の左は死に、こちらの右は生きている。


 海の指揮に芯が戻り、走の脚が右サイドを何度も上下する。相手は走のいる側を避けて、逆サイドへ攻めを寄せはじめた。


 残り三分。


 走がまた右奥へ抜け出した。


 今度は低く速いボールを、ニアへ入れる。


 そこへ神埼レオが飛び込んだ。


 規格外の身体が、ディフェンダーごとボールをゴールへ押し込む。


 二対一。


 逆転だった。残り二分で、相手は交代のカードを使い切っていた。


 笛が鳴ったとき、走はセンターサークルの手前で立っていた。


 息は、まだ上がっていない。


 走はこの二十八分で、走行距離四キロを超えていた。それでも、まだ走れる。


 九十分落ちない身体。


 去年、それは誰にも見えず、誰にも数えられなかった。


 今日、それが二点になった。


 レオが背中に飛びついてきた。財前が肩を掴んで揺すった。江口が意味もなく叫んでいた。


 走はされるがままになっていた。


「アズマ! お前ずっと右走ってたな!」


「走ってた」


「何本?」


「数えてない」


「数えてないの!?」


 数えていたが、いま言う気になれなかった。数えるより先に、レオの腕が重い。


 財前が走の背中を、もう一度強く叩いた。


「四本目、埋めたの俺だからな」


「知ってる」


「言えよ、そういうときは」


「……助かった」


「よし」


 財前は満足して、レオのほうへ行った。


 ベンチへ戻ると、眞鍋がタブレットを抱えて待っていた。


「東さん」


「……はい」


「東さんが入ってからの二十八分で、相手の左はスプリント十一本です。前半は四十分で七本でした」


「そうですか」


「二十八分で、前半より多く走らされてます」


 眞鍋は画面を見せた。


 折れ線が、後半の途中から垂直に近い角度で落ちている。


「これ、私が見たなかで、いちばんきれいな落ち方です」


 走は笑った。


「笑いましたね」


「笑った」


「今日は、笑っていいところです」


 眞鍋はそう言って、タブレットを抱え直した。


「白石さん、ハーフタイムにこれを監督に見せてます。私が渡したのは、ただの表なので」


「……ありがとうございます」


「言われるとこです、いまは」


 その隣に、先輩が座っていた。


 足首にテーピングを巻いて、こちらを見ていた。


 走は何を言うべきか分からなかった。


 勝った。勝ったのは、この人が下がったからだ。


 先輩のほうが、先に口を開いた。


「あいつ、逆サイドに逃げたな」


「……はい」


「俺は五十分やって、逃がせなかった」


 先輩は自分の足首を見た。


「お前、十六分か」


 走は答えられなかった。


「悔しいな」


 先輩はそう言って、それから、笑った。


「でも、勝ったからいいわ」


「……前半の四十分がなかったら、届いてません」


 走は言った。


 先輩が顔を上げた。


「あいつの前半のスプリントは七本です。俺が入ったときには、もう七本ぶん減ってました」


「……お前、そういうこと言うのな」


「事実です」


「可愛くねえな」


 先輩は笑って、それからテーピングの足を組み直した。


「まあ、それ聞けてよかった」


 鬼塚が、走の前に立った。


 走は立ち上がった。


 監督は腕を組んだまま、走を上から下まで一度だけ通した。あの査定の眼だ。


「東」


「はい」


「二本目から四本目、抜かれたな」


「はい」


「なんで抜かせた」


 走は、そこで一度だけ息を整えた。


 この問いに、正しく答える機会を、走は一年半待っていた。


「一本目は、止めました」


 走は言った。


「二本目から、相手が癖を消してきました。癖を消すには、意識で止める必要があります。意識で止めた動きは、無意識より高くつきます」


「……高くつく」


「あの選手は、俺の前でだけ、自分の型を変えて走っていました。三本抜かれたぶん、三本ぶん多く燃料を使っています」


 鬼塚は、一度言葉を切っていた。


「その三本は、抜かれるつもりだったのか」


「四本目からは、そうです」


 走は言った。


「二本目と三本目は、本気で止めにいって、止まりませんでした」


 鬼塚の眉が、一度だけ動いた。


 嘘をつかなかったことに、この人は反応した。走にはそれが分かった。


「だが、流してたんじゃないな」


 鬼塚は続けた。


「わざと抜かせて走らせて、あいつの脚を空にしてから刈り取った」


「はい」


「小手先、と言ったのは取り消さん」


 鬼塚は言った。


「だが、その小手先で今日の勝ちを拾ったのは、事実だ。覚えとけ。おれは、勝ちに貢献する奴しか使わん。次も拾ってみせろ」


 それだけ言って、鬼塚は歩いていった。


 走はその背中が遠ざかっていくのを見ていた。


 全部が変わったわけではない。この人は自分の勝ち方を取り下げていないし、走の走り方を認めたとも言っていない。


 だが今日、この人は走の仕事を勘定に入れた。


 入れたうえで、次と言った。


 一年半かけて、走が引き出したのは、その二文字だった。


 その夜、走は寮の部屋でスマホを出した。


 打ちかけて、消して、また打った。


 ――今日、後半から出て、勝った。


 送ってから、足りないと思って、もう一通打った。


 ――俺が相手を走らせて、氷室さんが決めた。


 説明になっていない。この人にはたぶん、何のことか分からない。


 分からなくても、言いたかった。


 返事は、十分後に来た。


 ――よくわからんけど、すごいね


 ――すごい


 走はその二行を、しばらく見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。