第81話 覆す
六十九分。左で相馬がボールを持ち、一度中央の海へ戻した。
海が右へ長いボールを送った。
走ではなく、走が空けた右の裏へ。
走は、削りきったウイングの背後を一気に駆け上がった。
相手の脚は、もう追ってこない。燃料は、走が全部使わせていた。
走が右奥でボールに追いつく。
中を見る。海はもう、次の絵の中央にいた。
走の折り返しに、走り込んだ海がダイレクトで合わせる。
ネットが、揺れた。
一対一。
ベンチが、跳ねた。
海がこちらを向いて、右手を上げた。
走はその手に、自分の手を合わせた。走ってきた勢いのまま、ぶつけるように合わせた。掌が鳴った。
この一年、朝の体育館で何百回も見た手だ。
走は自陣へ戻りながら、一度だけ息を吐いた。
この一点は、四十分前から始まっている。
相手のウイングが仕掛ける前に一拍置く癖を、眞鍋が数字で拾った。それを消せる立ち位置を、白石が鬼塚に見せた。走が十六分かけてその脚を空にした。四本目に抜かれた裏を、財前が埋めた。海が空いた場所を見つけて、そこへ送った。
誰か一人の手柄ではなかった。
走は去年の秋、海に背後を預けて上がったことがある。上がることが攻撃になるのは、もう知っていた。
知らなかったのは、こちら側の数だ。
ピッチの外で数字を撮っている人間がいて、それを監督の前に置いた人間がいて、走が抜かれた裏を黙って埋めた人間がいる。走が上がった四十メートルは、その全部の上に乗っていた。
(――こういう、ことか)
一人で守るな、と海は言った。
あの言葉の底は、たぶんまだ先がある。
流れは、もう完全にこちらへ来ていた。
削られた相手の左は死に、こちらの右は生きている。
海の指揮に芯が戻り、走の脚が右サイドを何度も上下する。相手は走のいる側を避けて、逆サイドへ攻めを寄せはじめた。
残り三分。
走がまた右奥へ抜け出した。
今度は低く速いボールを、ニアへ入れる。
そこへ神埼レオが飛び込んだ。
規格外の身体が、ディフェンダーごとボールをゴールへ押し込む。
二対一。
逆転だった。残り二分で、相手は交代のカードを使い切っていた。
笛が鳴ったとき、走はセンターサークルの手前で立っていた。
息は、まだ上がっていない。
走はこの二十八分で、走行距離四キロを超えていた。それでも、まだ走れる。
九十分落ちない身体。
去年、それは誰にも見えず、誰にも数えられなかった。
今日、それが二点になった。
レオが背中に飛びついてきた。財前が肩を掴んで揺すった。江口が意味もなく叫んでいた。
走はされるがままになっていた。
「アズマ! お前ずっと右走ってたな!」
「走ってた」
「何本?」
「数えてない」
「数えてないの!?」
数えていたが、いま言う気になれなかった。数えるより先に、レオの腕が重い。
財前が走の背中を、もう一度強く叩いた。
「四本目、埋めたの俺だからな」
「知ってる」
「言えよ、そういうときは」
「……助かった」
「よし」
財前は満足して、レオのほうへ行った。
ベンチへ戻ると、眞鍋がタブレットを抱えて待っていた。
「東さん」
「……はい」
「東さんが入ってからの二十八分で、相手の左はスプリント十一本です。前半は四十分で七本でした」
「そうですか」
「二十八分で、前半より多く走らされてます」
眞鍋は画面を見せた。
折れ線が、後半の途中から垂直に近い角度で落ちている。
「これ、私が見たなかで、いちばんきれいな落ち方です」
走は笑った。
「笑いましたね」
「笑った」
「今日は、笑っていいところです」
眞鍋はそう言って、タブレットを抱え直した。
「白石さん、ハーフタイムにこれを監督に見せてます。私が渡したのは、ただの表なので」
「……ありがとうございます」
「言われるとこです、いまは」
その隣に、先輩が座っていた。
足首にテーピングを巻いて、こちらを見ていた。
走は何を言うべきか分からなかった。
勝った。勝ったのは、この人が下がったからだ。
先輩のほうが、先に口を開いた。
「あいつ、逆サイドに逃げたな」
「……はい」
「俺は五十分やって、逃がせなかった」
先輩は自分の足首を見た。
「お前、十六分か」
走は答えられなかった。
「悔しいな」
先輩はそう言って、それから、笑った。
「でも、勝ったからいいわ」
「……前半の四十分がなかったら、届いてません」
走は言った。
先輩が顔を上げた。
「あいつの前半のスプリントは七本です。俺が入ったときには、もう七本ぶん減ってました」
「……お前、そういうこと言うのな」
「事実です」
「可愛くねえな」
先輩は笑って、それからテーピングの足を組み直した。
「まあ、それ聞けてよかった」
鬼塚が、走の前に立った。
走は立ち上がった。
監督は腕を組んだまま、走を上から下まで一度だけ通した。あの査定の眼だ。
「東」
「はい」
「二本目から四本目、抜かれたな」
「はい」
「なんで抜かせた」
走は、そこで一度だけ息を整えた。
この問いに、正しく答える機会を、走は一年半待っていた。
「一本目は、止めました」
走は言った。
「二本目から、相手が癖を消してきました。癖を消すには、意識で止める必要があります。意識で止めた動きは、無意識より高くつきます」
「……高くつく」
「あの選手は、俺の前でだけ、自分の型を変えて走っていました。三本抜かれたぶん、三本ぶん多く燃料を使っています」
鬼塚は、一度言葉を切っていた。
「その三本は、抜かれるつもりだったのか」
「四本目からは、そうです」
走は言った。
「二本目と三本目は、本気で止めにいって、止まりませんでした」
鬼塚の眉が、一度だけ動いた。
嘘をつかなかったことに、この人は反応した。走にはそれが分かった。
「だが、流してたんじゃないな」
鬼塚は続けた。
「わざと抜かせて走らせて、あいつの脚を空にしてから刈り取った」
「はい」
「小手先、と言ったのは取り消さん」
鬼塚は言った。
「だが、その小手先で今日の勝ちを拾ったのは、事実だ。覚えとけ。おれは、勝ちに貢献する奴しか使わん。次も拾ってみせろ」
それだけ言って、鬼塚は歩いていった。
走はその背中が遠ざかっていくのを見ていた。
全部が変わったわけではない。この人は自分の勝ち方を取り下げていないし、走の走り方を認めたとも言っていない。
だが今日、この人は走の仕事を勘定に入れた。
入れたうえで、次と言った。
一年半かけて、走が引き出したのは、その二文字だった。
その夜、走は寮の部屋でスマホを出した。
打ちかけて、消して、また打った。
――今日、後半から出て、勝った。
送ってから、足りないと思って、もう一通打った。
――俺が相手を走らせて、氷室さんが決めた。
説明になっていない。この人にはたぶん、何のことか分からない。
分からなくても、言いたかった。
返事は、十分後に来た。
――よくわからんけど、すごいね
――すごい
走はその二行を、しばらく見ていた。




