第80話 終わらせる側
後半の十三分。〇対一のまま、時間だけが減っていた。
俊足のウイングが、走の側のタッチライン際で、正面から向き合った。
仕掛ける前の、あの一拍。内側へちらりと足を置く癖。
走はそれを待っていた。
相手が内へ踏んだ半拍の裏で、走は外へ先に体を入れた。
ウイングの加速する進路が消える。速さで抜くはずの選手は、コースを塞がれてボールを下げるしかなかった。
ウイングの顔に、はっきりと戸惑いが浮かんだ。
中二に読まれた。その驚きが、走には見えた。
だが、二本目は抜かれた。
同じ癖を待って、同じ場所へ入った。今度は相手が、一拍を置かずに来た。
走の身体が、外へ流れた。
ベンチから鬼塚の声が飛んだ。走はそれを聞かなかった。
三本目も抜かれた。四本目も抜かれた。
四本目のあと、財前が中央から走の裏へ滑り込んで、クロスを跳ね返した。
走は自分の位置へ戻りながら、太腿を一度、拳で叩いた。
悔しい。三本続けて、自分の後ろを人に埋めてもらっている。
「東」
財前が短く言った。
「そのままでいい。俺が行く」
「……次は間に合わせる」
「間に合わせろ」
走はうなずいて、腰を落とし直した。
悔しさを、走は数えるほうへ回した。
二本目に相手が一拍を省いたのは、走に読まれたからだ。
省くには、余計な力が要る。
人は癖を消すとき、意識でそれを止める。意識で止めた動作は、無意識でやる動作より、必ず高くつく。
この選手はいま、走の前でだけ、自分の型を変えて走っている。
変えるたびに、燃料を余計に食っている。
スコアの上では、走が三回負けている。走が数えているのは、そこではなかった。
五本目から、走は外を半歩だけ空けた。
ウイングはそこへ仕掛ける。走は並走して、最後の一歩で締める。
抜けそうで、抜けない。
相手は全力のスプリントを、何度も強いられた。一回、二回、五回。
俊足の武器は、使うたびに燃料を食う。
入って十五分が過ぎたころ、ウイングの一歩目から、あの鋭さが消えはじめた。
仕掛けの前の一拍が、疲労でわずかに長くなる。
その一拍を、走は待たずに詰めた。届いた。ボールが外へ流れて、こちらのスローインになった。
走の背中を、熱いものが一度だけ通った。
組んだとおりに動いている。
眞鍋のタブレットの折れ線は、きっといま、はっきり下を向いている。
燃料切れ。
格上の脚にこそ、走の設計は深く効いた。
走はそれを見届けながら、胸の奥で一つ、覚えのある痛みを感じていた。
目の前のウイングは中三だ。強豪の主力で、たぶんこのカップに多くを懸けている。
その武器を、走はいま計算ずくで削っている。
去年の三月、走は同じ場所に立った。昇格のかかった試合で、岳から燃料を奪った。あのとき走は一つだけ決めている。
この人の来年は、この人のものだ。
勝負と、相手の一年は、別の棚に置く。置き方は、もう覚えた。
覚えていても、胸の奥は毎回、少し痛む。
痛むまま、走は手を緩めなかった。
緩めることは敬意ではない。
この相手を本気で削りきることが、格上へのただ一つの礼儀だった。
走はもう一本、餌を撒いた。
入って十六分が過ぎるころには、ウイングは走の前に来なくなった。
逆サイドへ逃げた。
こちらの右を捨てられた瞬間に、相手の攻撃は半分になった。
ピッチの重心が、走一枚で傾いた。
ベンチでは、鬼塚が腕を組んだまま、ピッチの右だけを見ていた。
その顔から、いつの間にか、いつもの淡々としたものが消えていた。
走は自分の呼吸を確かめた。
乱れていない。
残りは十二分。前半を走っていない身体には、たっぷり残っている。
こちらの右は生きていて、相手の左は死んでいる。
ここからが、走のいちばん得意な時間だった。
中盤で、海が顔を上げた。
走と、一瞬、視線が交わる。
地下の体育館で何百回も合わせた、あの呼吸だ。
残り十二分。〇対一。反撃の番だった。




