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第79話 呼ばれる

 後半の十分に、それは起きた。


 競り合いで、先輩が足をひねった。


 派手な倒れ方ではなかった。相手のウイングを追って、外へ踏み出したところで、足首が内へ入った。そのまま芝に膝をついて、二秒で立ち上がった。


 大事には見えない。


 だが、動きが一段落ちた。


 走の眼には、それが明確に見えた。着地のたびに、外側の踏み込みを避けている。避けるぶん、一歩ごとに半歩ぶん遅れる。


 あと十分で、その半歩は三歩になる。


 二分後、鬼塚がベンチを立った。


 ベンチには、走のほかに二人いた。


 一人は三年、一人は同じ二年。どちらも去年から試合に出ている。順番でいえば、走ではない。


 走は、アップの足を止めた。


 全身がすっと冷たく、そして静かに熱くなる。


 監督がこちらへ歩いてくる。その一歩ごとに、二つの人生ぶんの時間が、足元でぐっと縮んでいく気がした。


「東」


 呼ばれた。


 名前が空気を渡って届いた瞬間、走の心臓が一度、強く鳴った。


(――やっと、試せる)


 この一年、走が数えてきたものを、今日ここで一つ残らず出せる。


 走はベンチのほうを見なかった。


 ビブスを脱いで、審判の前へ行った。


 通算で五十二分。後半の十二分だった。


 交代の合図が出て、先輩がこちらへ歩いてくる。


 すれ違うとき、走はその人の顔を見た。


 悔しさは、あった。だがそれだけではなかった。何かをやり切れなかった人の顔ではなく、何かを渡す人の顔をしていた。


「東」


 先輩が言った。


「右のやつ、内に一回置いてから来る」


 走は足を止めた。


 その癖は、走がとうに知っていた。眞鍋のデータにも出ている。


 それでも、この人は四十分かけて、自分の脚で確かめて、それをいま渡している。


「……はい」


 走は言った。


「使います」


 先輩が一瞬、走を見た。


「使え」


 それだけ言って、先輩はベンチへ歩いていった。


 走はピッチに入った。


 芝の感触が、いつもと違った。


 カップ戦の、格上との後半。二年生が交代で入る場面としては、悪くない条件だ。


 前の生で、二度と立てないと言われた場所。父にピッチから下ろされ、確かめる前に蓋をされた場所。


 その同じ緑の上に、走はいま自分の脚で立っている。


(――先輩の脚が、ひねられたからだ)


 走はその考えを、頭から追い出さなかった。


 扉を開けたのは自分ではない。ただの事故だ。運が良かっただけだと言われれば、そのとおりだと答えるしかない。


 それでも、と走は思う。


 その扉の前に一年立ち続けたのは自分だ。ベンチには他に二人いて、鬼塚が呼んだのは走の名前だった。ハーフタイムにアップを始めたのも、走だけだった。


 開けてもらったのは事実で、選ばれたのも事実だ。両方とも本当のことなら、両方とも持っていけばいい。


 胃の底が、静かに焼けた。


 右サイドに立って、走は自分の身体を一度だけ確かめた。


 一五九センチ、四九キロ。


 四月から六センチ、五キロ。この一年で、走の身体は初めて動いた。まだ小さい。対面の中三は、たぶん一七〇を超えている。


 だが去年の走とは違う。


 接触して流れる回数が、確実に減っている。


 冬に地面を押す練習を積んだ。夏に十キロから始めた。順番を一度破って、三日で戻した。


 その全部が、いまここに乗っている。


 海が、中盤から一度だけこちらを見た。


 目が合った。


 この一年、朝と夕方に体育館で合わせ続けた呼吸だ。


 言葉はなかった。


 走は右手を、軽く上げた。


 海がわずかにうなずいた。


 それだけで、走の背後は埋まった。


 埋まった、と分かった瞬間に、肩から力が一段抜けた。


 この合図は、一年前に海が決めた。決めたものが、いまも生きている。


 鬼塚の声が、ベンチから飛んだ。


「東! 前半みたいなことするなよ!」


 走はその一言の意味を、正確に受け取った。


 前半みたいなこと。つまり、様子を見るな、ということだ。


 この人が求めているのは、入った瞬間から相手を折ることだ。


 走の設計は、そうなっていない。


 走がやることは、これから十数分かけて、相手の脚を空にすることだった。最初の何本かは、たぶん抜かれる。抜かれるところを、この人は見る。


(――それでも、やる)


 走は腰を落とした。


 説明では、この人は動かない。


 勝ちを持ってくる以外に、届く方法はない。


 最初の対峙は、すぐに来た。

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