第78話 入る隙
十月に、冬の練習試合の相手が決まった。
青嵐だった。十二月の第二週。
ボードに貼られた日程を、走は二度読んだ。
中一の秋以来だ。あれから一年以上、走はリクと当たっていない。当たっていないあいだに、あの男は県大会で二点取り、走はベンチに座っていた。
走はその日付を、頭の隅に置いた。
秋が深まるころ、海が戻ってきた。
全体練習の紅白戦で、海の一歩目が、以前の速さを取り戻していた。
落ちてくる場所に脚がちゃんと間に合う。頭と身体のあいだにあった半歩の遅れが、少しずつ消えていく。
春から続けた地下の作業が、目に見える形になりはじめていた。
その週、走は体育館で海の脚をもう一度診た。
《診断/氷室 海・中二》
一歩目 ――― 春の状態から、七割まで。
片脚保持 ――― 二十秒から、五十二秒。
ターン ――― 右は戻った。左は、まだ半拍遅い。
「戻りましたよね」海が言った。珍しく、少し早口だった。
「右のターンは、戻りました」
走は言った。言ってから、もう一度言い直した。
「五ヶ月です。五ヶ月で、右が戻った。これは、海さんが毎朝来たからです」
海は少し黙って、それから短く「そうか」と言った。
そのまま、しばらく自分の右足を見ていた。
「……全部は、まだですよね」
自分から言った。
「まだです」走はうなずいた。「左が半拍遅れてる。この状態で全力の量を戻すと、遅いほうの脚が、速いほうに合わせようとします」
「……合わせたら、どうなる」
「合わせられません。だから、どこかが代わりに働きます」
走は、それ以上言わなかった。言わなくても、この人には通じる。
「じゃあ、いつ戻る」
「骨が止まってからです」
海は天井を見て、長く息を吐いた。
「……お前、ほんと、いい報せの出し方が下手だな」
「先に言いました」
「言ったな」
「言いました」
「……褒めてる」
海が指揮を取り戻すと、チームの流れが変わった。ボールの散らばりに芯が通り、攻撃の絵に奥行きが出る。
誰もが、海が勝手に調子を上げたと思っていた。
その裏に走の設計があることを知るのは、眞鍋と、たぶん白石だけだった。
(証拠は、育ってる)
走はベンチから、それを静かに見ていた。
海が戻るほど、走の設計が本物だという証明が積み上がる。言葉で反論するより、よほど雄弁な返事だった。
走自身も、止まってはいなかった。
呼ばれない時間を、走は自分の身体に使った。土台を厚くし、盤面を上から読む眼を、ベンチで毎試合みがいた。
扉がいつ開いてもいいように、走はずっと、内側で身体を温めていた。
その秋、県のカップ戦があった。
相手は格上だった。全国を狙う強豪で、左のウイングに俊足の中三がいた。
走は初戦からベンチの端で、その選手の動きを眼で追った。
速い。だが癖がある。
仕掛ける前に必ず一度、内側へ足を止める。
眞鍋のタブレットにも、その一拍が数字で残っていた。
「東さん、この選手、仕掛けの前に平均〇・三秒止まってます」
「……気づいてましたか」
「気づきますよ。全部撮ってるので」
眞鍋は当たり前のように言った。
「東さんが見てるやつは、だいたい私も見てます」
「……ありがとうございます」
「お礼を言われるとこじゃないです」
眞鍋はそう言って、画面を閉じた。
「言われるとこは、もうちょっと先です」
試合が始まると、走の読みどおりになった。
右サイドバックの先輩は、堅実だった。
冒険せず、間合いを保ち、危ない場面を消していく。悪い選手ではない。むしろ真面目に、自分の役目を果たそうとしていた。
だが格上のウイングは、その堅実さの一枚上を走ってきた。
止めているようで、じりじりと押し込まれる。先輩の一歩が、相手の一歩に半分ずつ削られていく。
先輩自身も、気づいていた。
自分が的にされていることに。振り向くたび、その背中に焦りが滲んでいくのが、走にも見えた。
誰かが無能なわけではない。
ただ、格が違った。
前半の終わりに、その右を破られて、一点を失った。
ハーフタイムのベンチで、鬼塚は腕を組んでいた。
走は、監督の横顔を見ていた。
この人の哲学は、今日の一試合に勝つことだ。
その哲学が、いま初めて、走の側へ傾こうとしている。堅実なだけでは、この相手には勝てない。安全な選択が、今日は勝ちに届かない。
鬼塚の「今勝つ」が、皮肉にも走を呼ぶ理由に変わりかけていた。
だが、鬼塚は動かなかった。
後半頭も、まだ先輩を送り出した。
走の設計を勝ちに来ていないと読んでいる監督が、簡単に走へ賭けるはずもない。走はそれもわかっていた。
この人を動かすには、理屈の上に、もう一押しがいる。
白石が、そっとタブレットを鬼塚の視界に差し出した。眞鍋のまとめた、相手ウイングの一拍の癖。それを消せる立ち位置。
数字は、誰の身びいきでもない。
鬼塚はそれをちらりと見て、何も言わなかった。
ただ視線が一度、ベンチの端の走へ流れた。
走はそのやり取りを、端から見ていた。
白石は、去年の秋から鬼塚に数字を見せている。眞鍋は四月から全員分を撮っている。走が知らないところで、二人は走のために何度も同じことをやっていた。
頼んだ覚えはない。
(――勝手に、動いてくれてる)
走は膝の上で、一度だけ手を握った。
走は、自分から動いた。
四月に、走は聞いている。
なぜ外されたのか、と自分の口で聞いて、答えは返ってきた。最初の十分で流れを決められる選手が欲しい、と。
答えをもらったあとに、同じ問いをもう一度する意味はない。
問いは済んでいる。残っているのは、用意のほうだ。
走は無言で立ち上がって、タッチライン際でアップを始めた。
膝を上げ、股関節をほどく。いつ呼ばれても最初の一歩が出るように、身体を温めておく。
(頼まない。ただ、いつでも行ける形で、ここに立つ)
アップしながら、走の頭のなかでは、もう設計が始まっていた。
あのウイングの一拍の癖。仕掛ける前に一度、内側へ置く足。あの半拍を待って、外へ踏み出す瞬間に前へ入れば、速さはいらない。
相手に走らせて、削る。
燃料切れの戦術は、格上の脚にこそ効く。
十数分あれば、あの脚は、こちらの思う場所で音を上げる。
走はアップを続けながら、一度だけ、ピッチの右を見た。
そこにいるのは、先輩だった。
最後の一年を、なるべく長く粘ると言った人だ。
走がこのアップを終えて呼ばれるということは、その一年が、今日ここで終わるということでもある。
走は膝を上げる速度を、落とさなかった。
後半が始まった。
右は、また削られた。
先輩の脚に、前半ぶんの疲労が乗っている。格上のウイングはそれを嗅ぎつけて、同じ右を執拗に突いてきた。
二点目の匂いが、ピッチの右半分に濃く立ちこめる。




