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第77話 先輩の脚

 九月の終わり、走はグラウンドの隅で、その人が一人で走っているのを見た。


 右サイドバックの三年だった。


 全体練習が終わって、一時間が経っている。もう誰も残っていない。照明が二本だけついていて、その下でその人はコーンを並べて、切り返しを繰り返していた。


 走は少し離れた場所で足を止めた。


 三年生。走より一つ上で、走がこの一年、席を狙い続けている相手だ。


 二十本。三十本。四十本。


 休憩は挟んでいる。だが短い。四十秒か、五十秒。呼吸が戻りきる前に、次を始めている。


 走の眼は、勝手に働いた。


(――積み上がってない)


 その一連を見て、走はそう診断した。


 この人がやっていることは、間違ってはいない。切り返しは必要な動作だ。反復も要る。


 ただ、条件が悪すぎた。


 全体練習で消耗した身体に、休憩を挟まずに四十本を積んでいる。三十本目からフォームが崩れている。崩れたフォームで積んだ動作は、身体に「崩れた形」を覚えさせる。


 しかも、崩れた形で膝の外側に負担が寄っている。


 このまま冬まで続ければ、たぶんどこかで痛みが出る。


 走はそれを、二分見ただけで分かった。


 止めたい、と思った。


 思ったこと自体が、この場所では収まりが悪かった。この人は三年で、走は二年で、しかも走はこの人の席を狙っている。


 その相手が「そのやり方は間違っています」と言いに行くのは、どう言葉を選んでも助言にならない。


 走はしばらくそこに立って、それから、静かに引き返した。


 部屋に戻って、走はノートを開いた。


 書こうとして、書くことがないことに気づいた。


 走がこの一年で書いてきたのは、全部「どうすればよくなるか」だった。江口の鉄。海の配線。財前の三分。自分の順番。


 今日見たものは、その形に入らない。


 この人をよくする方法は、走の中にある。だが渡す道がない。


 渡す道がないものは、走にとって存在しないのと同じだった。


 走はページを閉じた。


 十月の初め、走はその人と二人になったことがある。


 用具室で、ボールを片付けていたときだ。


 先輩は籠を運びながら、こちらを見もせずに言った。


「東」


「はい」


「お前、上がるんだろ」


 走は答える言葉を持っていなかった。


 ユースへ、という意味だと分かった。


「白石さんが言ってた。……あの人、お前のこと買ってるよ」


「そうですか」


「おれは上がらん」


 先輩は籠を棚に置いた。


「去年、面談で言われた。今年で最後だと思ってやれって」


 走は何も言えなかった。


 その一言が何を意味するかは、この場所にいる全員が知っている。


 先輩は籠を並べ直しながら、続けた。


「別にいいんだ。うすうす分かってたし」


「……はい」


「小三からやってんだよ、サッカー」


 先輩は籠の縁を指でなぞった。


「小三から、七年。うち六年は、まあまあ楽しかった。去年の面談で、あと一年ですって言われて、正直ちょっとほっとした。終わりが決まってるほうが、やりやすいだろ」


「……そうですか」


「そうでもない」


 先輩は笑った。


「毎日思うよ。あと何回、この芝踏めるんだろって」


 走は、その言葉を黙って受け取った。


「ただな」


 先輩は手を止めた。


「最後の一年くらい、右で出たいんだよ」


 走は、そこで初めて相手の顔を見た。


「お前が上手いのは知ってる。去年、紅白戦で何回も内側から追い越されたし」先輩は苦笑した。「あれ、めちゃくちゃ悔しかった」


「……すみません」


「謝るなよ。上手いのが悪いわけない」


 先輩は籠の位置を直して、走のほうを向いた。


「監督がなんで俺を使ってるか、分かるか」


「……いえ」


「俺がミスしないからだ」


 先輩は言った。


「それだけだよ。俺には他に何もない。速くもないし、上手くもない。ただ、変なことをしないから使われてる」


 走は黙っていた。


「お前が入ってきたら、俺は終わりだ。分かってる」先輩は籠を持ち上げた。「だから、なるべく長く粘るわ」


「……はい」


「そこは『そんなことないです』じゃねえのかよ」


「嘘になります」


 先輩は少しのあいだ走を見て、それから声を出して笑った。


「お前、ほんと可愛くねえな」


 それだけ言って、先輩は用具室を出ていった。


 走はしばらく、足を動かせずにいた。


 この一年、走はあの席のことを「空いた席」と呼んでいた。


 空いていない。


 人が立っている。


 小三から七年やって、あと何回踏めるかを毎日数えている人が、立っている。


 その人にとって、あそこは最後の一年だ。走にとっては通過点で、その人にとっては終着点だった。


 それでも、走はあの席が欲しかった。


 譲る気は、一ミリもない。


 譲れば、あの人の最後の一年は少し長くなる。かわりに走の中二が終わる。走がそれを譲るなら、走はここに何をしに来たのか分からなくなる。


 譲らないと決めることと、相手を人間として見ることは、両立する。


 しなければならない。


 その二つとは別に、片付いていないものが一つ残っていた。


 膝の外側だ。


 寝る前に、走は一行だけ書いた。


 ――右の先輩。切り返し四十本。休憩四十秒。膝の外側。


 書いてから、走はもう一行だけ足した。


 ――言えない。


 言えない理由も、書いた。


 ――年が上だから。


 書いてから、走はその行を見ていた。


 それだけではない、と思った。


 思って、走はもう一行足した。


 ――俺があの席を狙っているから。


 書いてしまうと、身も蓋もなかった。


 身も蓋もないほうが、たぶん本当だった。


 走はノートを引き出しへ戻して、電気を消した。


 その週の紅白戦で、走はいつもより一段、丁寧に守った。


 誰にも気づかれない種類の丁寧さだった。

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