第76話 幕間・アカネ ~見えている眼~
中二の秋、アカネはベンチにいる時間が増えた。
監督は何も言わない。ただ、スタメンから名前が消える回数が増えた。
最初の一ヶ月、アカネはそれをどう受け取っていいか分からなかった。
二ヶ月目に、ベンチが見やすいことに気づいた。
ピッチの中にいると、見えるのは自分の周りの五メートルだけだ。
外にいると、全部が見える。
誰がどこで足を止めるか。誰が声を出さないか。前半の三十分で、どのあたりから走り方が変わるか。
アカネはそれを、退屈しのぎに数えはじめた。
最初に気づいたのは、二年の男子の一人だった。
後半の十五分から、走り方が変わる。歩幅が短くなって、腕が下がる。本人は全力で走っているつもりでいる。
アカネはその時間を毎回覚えていた。十五分。次の試合も十五分。その次は十二分だった。
十二分の日は、前の日に長い練習があった日だった。
(――前の日で決まってる)
アカネはその一致を、二ヶ月で四回確かめた。
四回目に当たったとき、アカネは思わずベンチで身体を起こした。
面白かった。
前の日の量を見れば、次の日に落ちる時間が分かる。ばらばらに見えていたものが、一本の線で繋がった瞬間だった。ゴールが決まったときの気持ちよさとは種類が違うのに、同じくらい気持ちがよかった。
次に気づいたのは、一年の子だった。
着地のたびに、膝が内へ入る。
走るのは速い。監督は使いたがっている。試合にもよく出ている。
だがアカネの眼には、その一歩ごとの角度が、どうしても引っかかった。
なぜ引っかかるのかは、自分でも説明できなかった。
ただ、見ているとそこだけが気持ち悪い。
十月の練習試合で、その子が転んだ。
接触ではない。自分で走って、自分で膝を落とした。
その場では立ち上がって、最後まで出た。
二週間後、松葉杖で登校してきた。
アカネは廊下でそれを見て、しばらく動けなかった。
当たった。
当たったことに、まったく喜べなかった。
言えばよかった、と思った。
二週間前でも、二ヶ月前でもいい。「あんた、その走り方だと膝をやるよ」と言っておけばよかった。
言っていない。
言わなかった理由は、はっきりしていた。
(――理由が、言えない)
危ない気がする、では誰も止まらない。
アカネがベンチで数えていることは、全部「なんとなく」だった。なんとなく後半十五分から落ちる。なんとなくあの膝が気持ち悪い。
それを人に渡すには、なぜかを説明できなければいけない。
アカネには、それがなかった。
その日の帰り、アカネは自転車を止めて、少し考えた。
自分がいま、何をしているのか。
試合に出られなくなって、ベンチで人の走り方を数えている。数えて、当てて、当てたのに何もできない。
傍から見れば、ただの見物人だ。
それでも、アカネはやめられなかった。
やめる理由がなかった、というほうが近い。
やめたくなかった、というのが、いちばん近い。
家に帰って、アカネはノートを一冊出した。
新しいノートだった。表紙に何も書かなかった。
最初のページに、同学年の男子の名前を縦に並べた。
その横に、気づいたことを書いた。
――後半十五分で落ちる。前日の量に比例。
――膝が内。要注意。
――一年の細い子、最近ずっと顔色が悪い。
書きながら、アカネは自分の手が速いことに気づいた。
思い出そうとしていない。もう全部、頭に入っていた。
この秋、アカネはベンチから毎日それを見ている。だがベンチに座る前から、交代で下がっているあいだも、練習で相手を待つあいだも、アカネはずっと人の走り方を見ていた。
見ていたのに、書いていなかっただけだ。
書くと、形になった。
形になると、少しだけ、次に何を調べればいいかが見えた。
アカネはノートを閉じて、机の引き出しにしまった。
誰にも見せるつもりはなかった。
見せる相手が、いなかった。
母に見せても分からない。部の誰に見せても、たぶん笑われる。走に見せたら――と考えて、アカネはそこで手を止めた。
あの男に見せたら、全部知っていると言われる気がした。
言われなくても、そういう顔をされる気がした。
(それは、いや)
アカネは引き出しを閉めた。
これは、あたしのだ。
次の日から、アカネはノートに一行ずつ足していった。
誰にも言わずに、二週間で二十行になった。
二十行になったところで、アカネは初めて、自分が何も分かっていないことに気づいた。
書けば書くほど、なぜかが分からない。
後半十五分で落ちる理由を、アカネは知らない。膝が内へ入ると壊れる理由も、知らない。
見えてはいる。
見えているだけだ。
(――足りない)
足りない、と思ったとき、アカネの胸に来たのは落胆ではなかった。
調べたい。
その夜、アカネは市の図書館の場所を調べた。
自転車で三十分かかることが分かった。
三十分か、と思って、アカネは地図を閉じた。
閉じてから、日曜が待ち遠しいことに気づいた。
こんな気持ちで週末を待つのは、試合が決まった日以来だった。




