第75話 三日
翌日、走は誰にも言わなかった。
朝の自転車は、いつもどおり回した。心臓を使うだけなら、脛には何も来ない。
全体練習には、普通に出た。
走るのも、切り返すのも、問題はなかった。あの一点は、走っているあいだは何も言わない。特定の角度で力がかかったときだけ、引っぱられる。
ウェイト場には、行かなかった。
二日目も、三日目も行かなかった。
三日間、走は脚に重りを乗せるのをやめた。
やめたのは、そこだけだ。全体練習には出て、走って、切り返している。やったのは、上半身と、身体を支える練習だけだ。ゆっくり動いて、止める。転がって、立つ。地味な作業を、三日ぶん積んだ。
誰も気づかなかった。
走のメニューは元から地味で、外から見て内容の違いが分からない。減らしても、周りには同じに見える。
いつも見えないことを不便に思っていたが、この三日だけは都合がよかった。
二日目の夜、財前が言った。
「お前、今日ウェイト来なかったな」
走は一瞬、答えに詰まった。
「休んでる」
「珍しいな」
「そういう日もある」
「ふうん」
財前はそれ以上、聞かなかった。
聞かれていたら、走は正直に言っただろうか。
走はそのことを、布団の中で少し考えた。
言えば、財前は誰にも言わない。この男はそういう人間だ。朝のあの部屋で三分を二人で待ってきた相手で、走が二つ隣から名前を呼ばれる相手でもある。
だが言えば、財前は走を心配する。心配されると、走は説明しなければならない。説明すれば、順番を破ったことを認めることになる。
認めれば、たぶん、二度とやらない。
(――だから、言わないのか)
走はそこで、少し嫌な気持ちになった。
言える相手が、いなかったわけではない。
いたのに、言わなかった。
三日目の夜、走は脚を確かめた。
引っぱられる感じは、消えていた。
角度を変えて、力をかけて、何度か試した。何もない。押しても痛くない。
三日で消えた。
こちら側で止まった、ということだ。
走は長く息を吐いた。
ほっとした。それは、混じり気なしの安堵だった。明日から普通に練習ができる。秋にも走れる。冬の試合にも間に合う。
安堵が抜けていくと、抜けた場所に、別のものが入ってきた。
(――これで、無かったことになる)
走はそれを、正確に認識した。
三日休んで、消えた。誰も気づかなかった。記録にも残らない。
明日から元の重さに戻せば、この三日は存在しなかったことになる。
次に同じことをやりたくなったとき、走の中に残っているのは「三日で消えた」という経験だけだ。「危なかった」ではなく「大丈夫だった」として残る。
人が同じ失敗を繰り返すのは、たいていこの形だった。
走はそれを知っている。知っているから、書くべきだった。
走はノートを開いた。
ページを開いて、ペンを持って、そこで止まった。
書けば、残る。
残れば、この三日は失敗として登録される。走が自分に課した順番を、走自身が破ったという記録になる。
この一年、走はこのノートに嘘を書いたことがない。動かない数字も、下がった体重も全部書いた。勘で入った守備のことも書いた。
いちばん最初の実験台は、いつも自分だ。前の生から、変わらない順番だった。
実験台が結果を隠したら、その実験には何の意味もない。
走は書いた。
――八月二十日。順番を破った。脛の上、引っぱられる感じ。三日で消えた。
一拍おいて、その下にもう一行足そうとして、手が止まった。
書こうとしたのは「二度とやらない」だった。
書かなかった。
書けば嘘になる気がした。
翌日、走は元の重さに戻した。
三・七五キロぶん減らして、止まっていたところへ戻す。七月の半ばから、走の重さは十六・二五キロのままだった。
走はそれを、八回、三セットやった。
セットのあいだに、三分。
何も起きなかった。
その週の終わり、走は自分の脚を診た。
問題はなかった。
あの三日は、走の身体に何も残していない。
残ったのは、ノートの一行だけだった。
走はそのページを一度だけ開いて、それから閉じた。
閉じたあと、少しのあいだ、机の前に座っていた。
(――視えていた)
あのとき、走の眼は正確に働いていた。腰から力が抜けたのも、膝で補ったのも、全部見えていた。
見えていて、続けた。
これが他人の身体なら、走は一回目で止めている。財前でも江口でも、海でも、リクでも。二回目に入る前に、走は必ず声をかけた。
自分にだけ、かけなかった。
視力の問題ではない。
距離の問題だった。
自分の身体には、走が中にいる。中にいる人間は、少しずつ動いた線を、動いたと思わない。
走はノートを引き出しにしまった。
その一行を、走はそのあと数ヶ月、一度も読み返さなかった。
読み返す必要がなかったからだ。脚は治り、身体は順調に伸び、秋には試合の順番が回ってきた。
忘れたわけではない。
ただ、日付の上に、別の日付が何百も積み上がっただけだ。
その一行が何を意味していたのかを、走が本当に理解するのは、もっとずっと先のことになる。




