第74話 順番
名古屋へ戻る前の日、走は高山の家でスマホを見ていた。
県大会の結果が出ていた。青嵐が勝ち上がっている。得点者の欄に、桐生陸の名前が二つ並んでいた。
走はその二文字を、しばらく見ていた。
あの脚は、走が二年かけて守った脚だ。守った脚が、いま二点取っている。
うれしかった。
うれしくて、そのすぐ下に別のものがあった。名前がまだついていない、粘るような何かだった。
名古屋へ戻った週に、走は自分の順番を破った。
最初は、ほんの少しだった。
走の重さは、七月の半ばから止まっていた。
十六・二五キロ。そこから先は、八回目でフォームが保てない。走は四週間、同じ数字をノートに書いている。計画どおりだ。止まったら、そこで止める。自分でそう決めた。
その週、走は増やす予定だった一・二五キロを、二・五キロにした。
挙がった。
フォームも崩れなかった。
二・五キロは、思ったより素直に上がった。四月からの身体が、そのまま数字に出ている。伸びている、というのはこういう感触のことだった。
面白かった。
走はそこで止めるべきだった。
次の日、走はもう一・二五キロ足した。
二週間ぶんの前倒しになる。
これも挙がった。八回のうち、最後の二回だけ、身体の使い方が少し変わった。腰から先に力が抜けて、それを膝で補った。
走の眼には、それが見えていた。
見えていて、続けた。
(――一回だけだ)
走は自分にそう言った。
一回崩れたくらいでは何も起きない。それは事実だ。人の身体は、一回の失敗で壊れるようにはできていない。
壊れるのは、そのあとだ。
一回目のあとに、二回目が来る。二回目のあとには、それが基準になる。
三日目、走は種目を一つ増やした。
脚に、初めて重い負荷をかける種目だった。
やる予定は、中三の秋だった。継ぎ目が落ち着くのを待ってから。走が去年の冬にノートへ書いた計画には、そう書いてある。
いまは、八月だ。
一年、早い。
走は器具の前に立って、少しのあいだ、自分の左膝を見ていた。
言い訳は、いくつも用意できた。
この一年で身体はできている。支持の練習は積んだ。力の通り道もできている。重さは他人の半分以下だ。回数も少ない。フォームは崩さない。
どれも本当だった。
どれも、去年の走なら「その理屈で壊れた脚を、俺は何百本も見た」と言い返したはずだった。
走は、重りを乗せた。
八回のうち、六回目で、鳴った。
音がしたわけではない。
膝の下、脛の上のあたりに、覚えのある種類の違和感が走った。
鋭くはない。痛みですらない。何かが、そこで引っぱられた感じだった。
走は動きを止めた。
器具から降りて、床に座った。
脚を伸ばして、その場所に指を当てた。
走の眼が、勝手に診断を始めた。
骨の下端と、腱がついている場所。伸びている最中の身体で、いちばん引っぱられる一点。
リクを診たときに、何度も見た場所だ。
あのとき走は、まだ小学生だった。リクの脚を触って、それから「走るな」と言った。リクは焦って、走は抑えた。二年抑えた。
同じ場所が、いま走の脚にある。
(――やった)
走はそれを、はっきりと自覚した。
やった。順番を破って、いちばんやってはいけない時期に、いちばんやってはいけない種目をやった。
自分で処方して、自分で破った。
走はしばらく、床に座っていた。
誰も見ていなかった。夕方で、ウェイト場には走一人だった。
走は自分の脚を押したり、曲げたりして、状態を確かめた。
腫れていない。熱もない。歩ける。走れる。明日の練習に出られる。
構造としては、何も起きていない。
起きているのは、警告だった。
この段階でやめれば、三日から一週間で消える。続ければ、消えなくなる。走は前の生で、その分岐を何百回も見ている。
こちら側で止まった子は、何事もなかったように翌年を迎える。
向こう側へ行った子は、二度と戻らない。
走は立ち上がった。
器具を片付けて、重りを棚へ戻した。三・七五キロぶんを、いちばん軽い場所へ戻した。
それから、水道で膝を冷やした。
冷たい水を当てながら、走は自分がいまやっていることを、正確に理解していた。
冷やせば、引っぱられた感じは薄れる。薄れれば、明日の練習で気にならなくなる。気にならなければ、走は普通に走る。
つまり、冷やすというのは、見えにくくするということでもある。
回復の技術だ。走はそれを、他人には正しく使ってきた。
いま走は、それを別の目的で使っている。
(――なんで、急いだ)
水を止めて、走は自分に聞いた。
理由は、一つではなかった。
一つ。数字が四週間、動いていない。去年の冬、同じ数字を八回書いた夜のことを、走はまだ覚えている。
二つ。十八分で二点差を消して、名前は呼ばれなかった。次に呼ばれる日を、誰も教えてくれない。
三つ。リクが、二点取った。同じ夏に、走はベンチにいた。
四つ。アカネの身体が、去年から二センチしか動いていない。ケンジがアカネを弾き飛ばして、誰も悪くなくて、走の医学は何一つできなかった。
四つ目と、重りのあいだには、何の関係もない。
関係がないのに、身体が勝手に急いだ。
(……こういうものか)
走はタオルで脚を拭いた。
人が焦る理由は、たいてい、焦っている対象とは別のところにある。
前の生でも、走はそれを何度も見た。見て、患者にそう説明した。説明できたのは、自分がその外にいたからだ。
いまは、中にいる。




