第73話 帰省・二度目
盆に、走は高山へ帰った。
去年と同じバスに乗って、同じトンネルを抜けた。同じ場所で窓を開けた。匂いは、去年と同じだった。
変わったのは、走の身体のほうだ。
一五七センチ、四八キロ。去年の盆から九センチ、八キロ。バスの座席が、去年より狭く感じた。
家に着くと、母が玄関で言った。
「大きくなった!」
「うん」
「え、ほんとに大きくなったね。声も変わった?」
「少し」
走は靴を脱ぐ手を止めた。
九センチ伸びたことは、自分でも数えている。数えているのと、言われるのは違った。
「九センチ」
「九!?」
「去年の盆から」
「うそ、九センチ? あんた、どうしたの」
「飯と、寝たからだ」
「そんなわけないでしょ」
母は本気で驚いた顔をしていた。走は少し笑った。
夜の飯は、去年と同じ順番で出てきた。汁があって、青いものがあって、米が最後に来る。誰も何も説明しないのに、この家の食卓はそういう並びになっている。
走はそれを、黙って食べた。
うまかった。
食べ終えたころ、母がなぜか少し困ったような顔をした。
走はその表情の意味を、次の日に理解した。
二日目、走はアカネの部活を見に行った。
去年と同じ、フェンスの外だった。
紅白戦をやっていた。アカネはすぐに見つかった。
前半に一点取った。相手のセンターバックが一歩内へ寄った、その裏へ落とした。走の眼で見ても、見事な一点だった。判断も、置き所も、この年代の男子には出せない精度だった。
上手さは、落ちていない。落ちていないどころか、去年より上がっている。
走はそれを確認して、それから、確認したくないほうを見た。
(――肩が、通っていない)
アカネが競り合うたびに、身体が半歩ぶん後ろへ運ばれている。
去年の夏、走は「早ければ来年の夏、遅くても再来年」と計算した。
今年の夏だった。
計算が当たったことに、走は何の満足も感じなかった。
同学年の男子の身体が、この一年で明確に変わっている。首が太くなり、肩が張り、声が低くなった。アカネの身体は、去年からほとんど動いていない。
あと一年で、追いつかれる。二年で、追い越される。
後半に、それが起きた。
中盤の浮き球に、アカネと白組のケンジが同時に入った。肩がぶつかって、アカネの身体が宙に浮いた。
走は、フェンスの外で息が止まった。
走が六年かけて、いちばん時間をかけて底上げした男の子だ。
その身体が、いまアカネを弾き飛ばした。
ケンジは心底すまなそうに手を差し出し、アカネはその手を取らずに自分で立った。
フェンスを掴んでいた手を、走は離した。
掌に、金網の跡がついていた。
言えることは、何一つなかった。
言えないのではない。言うべき言葉が存在しない。
アカネの身体は壊れていない。故障もしていない。栄養も睡眠も、たぶん人並みには足りている。走が診断しても、直すところが一つもない。
起きているのは、二次性徴の時間差という、ただそれだけのことだ。
誰も悪くない。ケンジも悪くない。アカネも何一つ間違っていない。
走の医学が、ここでは一ミリも役に立たない。
六十八年ぶんの知識を持って、目の前の一人に対して、できることがゼロだった。
走に視えるのは、身体までだ。
この先アカネの身体がどう動くかは、数字で言える。抜かれる回数が増えることも、その速度も、たぶん当たる。
だが、この子がそれをどう扱うかは、走の眼の外にある。
やめるのか、続けるのか、別の何かを見つけるのか。走には一つも視えない。視える気がしたら、それは走の願望だ。
そして、仮に当たっていたとしても、先に言ってはいけなかった。
言えば、それはアカネの発見ではなくなる。
誰かに道を示されて歩く人生と、自分で見つけて歩く人生。途中は同じでも、終わりが違う。
走はそれを、前の生で知っている。走は道を示された。示された道は正しかった。正しくて、走は六十八年、その正しさを恨んだ。
(――俺は、あれを、この子にはやらない)
言わないと決めることと、口をきかないことは、別だ。
走はフェンスを離れて、来た道を戻った。
その夜、アカネから連絡が来た。
――走、明日ひま?
――ひまだ。
――空き地来て。ハルもいる。
走は返信を打ってから、しばらく画面を見ていた。
翌日、空き地には三人いた。
アカネと、ハルと、ケンジ。
ケンジは走を見て、少し驚いた顔をした。
「走、でかくなったな」
「ケンジもだ」
「おれ、九センチ伸びた」
「俺も九だ」
「えっ、一緒じゃん」
ケンジは嬉しそうに言った。悪気はどこにもない。
アカネは何も言わなかった。ボールを足の裏で転がしていた。
「昨日、見てた」走は言った。
アカネの足が止まった。
「は?」
「一点目。相手のセンターバックが内へ寄ったところの裏に落とした」
「……見てたの」
「フェンスの外から」
「言えし」
「言うと、変な球が来ると思った」
「来ないし」
アカネは足の裏でボールを一度、強く押さえた。
「……あれ、うまくいったやつ」
「うまくいってた」
「でしょ」
アカネはそれだけ言って、ボールを蹴り出した。
四人で少しだけ蹴った。走は手加減をしなかった。しても意味がないからだ。
アカネは、まだ誰よりうまかった。
二本目に、走がアカネと一対一になった。アカネが仕掛けてくる。走の眼は全部読んでいた。読んでいて、身体で止めた。
肩が触れた瞬間、アカネの身体が半歩、外へ流れた。
去年は、こうならなかった。
アカネは何も言わずに、ボールを追いに行った。
ハルが後ろで「うわ、走こわ」と言って笑った。走も笑った。笑いながら、胸の奥は静かだった。
帰り際、アカネが言った。
「あんた、強くなったね」
「……そうか」
「うん。去年、あたし勝ってたもん、一対一」
走は黙っていた。
答えると、どう答えても嘘になる。
「まあ、いいけど」アカネは笑った。「あたしも上手くなってるし」
「なってる」
「でしょ」
それは本当だった。走は嘘をつかずに済んだ。
アカネは満足したように、先に歩き出した。
走はその背中を、しばらく見ていた。
最終日、母が握り飯を持たせた。
去年と同じだ。塩が濃い。
バスに乗ってから、走はそれを食べた。
窓の外を、山が流れていく。
走の身体は、この一年で九センチ伸びた。アカネは二センチだった。
同じ一年を同じくらい真面目に生きて、片方は伸びて、片方は止まった。
そこに理由はない。
理由がないことを、走はいちばん知っている職業にいた。
それでも、この夏の名古屋行きのバスは、去年よりずっと長く感じた。




