↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
73/140

第73話 帰省・二度目

 盆に、走は高山へ帰った。


 去年と同じバスに乗って、同じトンネルを抜けた。同じ場所で窓を開けた。匂いは、去年と同じだった。


 変わったのは、走の身体のほうだ。


 一五七センチ、四八キロ。去年の盆から九センチ、八キロ。バスの座席が、去年より狭く感じた。


 家に着くと、母が玄関で言った。


「大きくなった!」


「うん」


「え、ほんとに大きくなったね。声も変わった?」


「少し」


 走は靴を脱ぐ手を止めた。


 九センチ伸びたことは、自分でも数えている。数えているのと、言われるのは違った。


「九センチ」


「九!?」


「去年の盆から」


「うそ、九センチ? あんた、どうしたの」


「飯と、寝たからだ」


「そんなわけないでしょ」


 母は本気で驚いた顔をしていた。走は少し笑った。


 夜の飯は、去年と同じ順番で出てきた。汁があって、青いものがあって、米が最後に来る。誰も何も説明しないのに、この家の食卓はそういう並びになっている。


 走はそれを、黙って食べた。


 うまかった。


 食べ終えたころ、母がなぜか少し困ったような顔をした。


 走はその表情の意味を、次の日に理解した。


 二日目、走はアカネの部活を見に行った。


 去年と同じ、フェンスの外だった。


 紅白戦をやっていた。アカネはすぐに見つかった。


 前半に一点取った。相手のセンターバックが一歩内へ寄った、その裏へ落とした。走の眼で見ても、見事な一点だった。判断も、置き所も、この年代の男子には出せない精度だった。


 上手さは、落ちていない。落ちていないどころか、去年より上がっている。


 走はそれを確認して、それから、確認したくないほうを見た。


(――肩が、通っていない)


 アカネが競り合うたびに、身体が半歩ぶん後ろへ運ばれている。


 去年の夏、走は「早ければ来年の夏、遅くても再来年」と計算した。


 今年の夏だった。


 計算が当たったことに、走は何の満足も感じなかった。


 同学年の男子の身体が、この一年で明確に変わっている。首が太くなり、肩が張り、声が低くなった。アカネの身体は、去年からほとんど動いていない。


 あと一年で、追いつかれる。二年で、追い越される。


 後半に、それが起きた。


 中盤の浮き球に、アカネと白組のケンジが同時に入った。肩がぶつかって、アカネの身体が宙に浮いた。


 走は、フェンスの外で息が止まった。


 走が六年かけて、いちばん時間をかけて底上げした男の子だ。


 その身体が、いまアカネを弾き飛ばした。


 ケンジは心底すまなそうに手を差し出し、アカネはその手を取らずに自分で立った。


 フェンスを掴んでいた手を、走は離した。


 掌に、金網の跡がついていた。


 言えることは、何一つなかった。


 言えないのではない。言うべき言葉が存在しない。


 アカネの身体は壊れていない。故障もしていない。栄養も睡眠も、たぶん人並みには足りている。走が診断しても、直すところが一つもない。


 起きているのは、二次性徴の時間差という、ただそれだけのことだ。


 誰も悪くない。ケンジも悪くない。アカネも何一つ間違っていない。


 走の医学が、ここでは一ミリも役に立たない。


 六十八年ぶんの知識を持って、目の前の一人に対して、できることがゼロだった。


 走に視えるのは、身体までだ。


 この先アカネの身体がどう動くかは、数字で言える。抜かれる回数が増えることも、その速度も、たぶん当たる。


 だが、この子がそれをどう扱うかは、走の眼の外にある。


 やめるのか、続けるのか、別の何かを見つけるのか。走には一つも視えない。視える気がしたら、それは走の願望だ。


 そして、仮に当たっていたとしても、先に言ってはいけなかった。


 言えば、それはアカネの発見ではなくなる。


 誰かに道を示されて歩く人生と、自分で見つけて歩く人生。途中は同じでも、終わりが違う。


 走はそれを、前の生で知っている。走は道を示された。示された道は正しかった。正しくて、走は六十八年、その正しさを恨んだ。


(――俺は、あれを、この子にはやらない)


 言わないと決めることと、口をきかないことは、別だ。


 走はフェンスを離れて、来た道を戻った。


 その夜、アカネから連絡が来た。


 ――走、明日ひま?


 ――ひまだ。


 ――空き地来て。ハルもいる。


 走は返信を打ってから、しばらく画面を見ていた。


 翌日、空き地には三人いた。


 アカネと、ハルと、ケンジ。


 ケンジは走を見て、少し驚いた顔をした。


「走、でかくなったな」


「ケンジもだ」


「おれ、九センチ伸びた」


「俺も九だ」


「えっ、一緒じゃん」


 ケンジは嬉しそうに言った。悪気はどこにもない。


 アカネは何も言わなかった。ボールを足の裏で転がしていた。


「昨日、見てた」走は言った。


 アカネの足が止まった。


「は?」


「一点目。相手のセンターバックが内へ寄ったところの裏に落とした」


「……見てたの」


「フェンスの外から」


「言えし」


「言うと、変な球が来ると思った」


「来ないし」


 アカネは足の裏でボールを一度、強く押さえた。


「……あれ、うまくいったやつ」


「うまくいってた」


「でしょ」


 アカネはそれだけ言って、ボールを蹴り出した。


 四人で少しだけ蹴った。走は手加減をしなかった。しても意味がないからだ。


 アカネは、まだ誰よりうまかった。


 二本目に、走がアカネと一対一になった。アカネが仕掛けてくる。走の眼は全部読んでいた。読んでいて、身体で止めた。


 肩が触れた瞬間、アカネの身体が半歩、外へ流れた。


 去年は、こうならなかった。


 アカネは何も言わずに、ボールを追いに行った。


 ハルが後ろで「うわ、走こわ」と言って笑った。走も笑った。笑いながら、胸の奥は静かだった。


 帰り際、アカネが言った。


「あんた、強くなったね」


「……そうか」


「うん。去年、あたし勝ってたもん、一対一」


 走は黙っていた。


 答えると、どう答えても嘘になる。


「まあ、いいけど」アカネは笑った。「あたしも上手くなってるし」


「なってる」


「でしょ」


 それは本当だった。走は嘘をつかずに済んだ。


 アカネは満足したように、先に歩き出した。


 走はその背中を、しばらく見ていた。


 最終日、母が握り飯を持たせた。


 去年と同じだ。塩が濃い。


 バスに乗ってから、走はそれを食べた。


 窓の外を、山が流れていく。


 走の身体は、この一年で九センチ伸びた。アカネは二センチだった。


 同じ一年を同じくらい真面目に生きて、片方は伸びて、片方は止まった。


 そこに理由はない。


 理由がないことを、走はいちばん知っている職業にいた。


 それでも、この夏の名古屋行きのバスは、去年よりずっと長く感じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。