↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
72/140

第72話 幕間・アカネ ~抜かれる夏~

 盆の二日目の陽が、地元のグラウンドを白く焼いていた。


 その日は、部内の紅白戦だった。


 前半に、アカネは一つ取った。


 相手の背中を取って、ねじ込んだ。ネットが揺れる感触は昔と変わらない。膝から下に、じんと残る。


 やった、と思った。


 上手さは、まだ落ちていない。読みも、止める技術も、蹴る場所を決める眼も、同学年の男子の誰より上だと自分でわかっている。今日の一点は、この学年であたし以外に取れる子はいない。


 変わったのは、上手さの外側だった。


 以前なら当たり負けしなかった相手に、肩を入れられると身体が浮く。競り合いの最後の一押しで、じりっと後ろへ運ばれる。ボールへの一歩目で、並ばれる。去年まで考えなくてよかったことを、今年は一つずつ考えないといけなくなっていた。


 去年の春、アカネはとなり町のエースを完封した。技で上回り、体でも当たり負けしなかった。今年の春、同じ相手とやった。技ではまだ上回れたのに、当たった瞬間に弾かれた。上手さで作った差を、身体が後ろから消していく。


 ずっと、そうだった。


 気づいていなかったわけじゃない。去年の夏から、少しずつ確かめてきた。


 ただ、この日のはっきり度が、違った。


 後半だった。


 中盤で浮いたボールを、アカネと、白組のケンジが同時に狙った。


 ケンジ。幼馴染の、あのケンジだ。小さいころ六人でいちばん足が遅くて、いちばんへたくそだった男の子。走の底上げをいちばん長く浴びて、それでもずっと最下位だった、あのケンジ。


 肩がぶつかった。


 次の瞬間、アカネの身体は宙に浮いていた。


 弾かれたとわかったのは、芝に尻をついてからだった。ケンジはボールを収めて二歩前へ運び、それから振り返った。声変わりした低い声で、心底すまなそうに言った。


「あ、ごめん。アカネ、大丈夫か」


 その「ごめん」が、いちばん深く刺さった。


 悪意なら、まだよかった。抜いてやろうという顔でぶつかってきたなら、憎めた。でもケンジは、ただ普通に競って普通に勝って、本気で心配していた。当たり前のことをした顔で、手を差し出してきた。


 ケンジの眼を、アカネは見てしまった。困っていた。幼馴染を弾き飛ばしたことを、この子は本気で困っている。抜いて嬉しいわけじゃない。ただ、身体が勝手に強くなって、勝手にアカネを追い越していく。ケンジにも止めようがないのだ。誰も悪くない。誰も悪くないことが、こんなに苦しいなんて、アカネは知らなかった。


(なんで)


 アカネはその手を取らず、自分で立った。


 練習量なら、あたしのほうが上だ。今も昔も、誰より走り込んでいる。上手さでも、まだ抜かれていない。なのに身体が、勝手に順位を書き換えていく。夏が来るたび隣の男子の背が伸びて、肩幅が広がる。それだけで、あたしの届かない場所へ行ってしまう。


 努力の話じゃなかった。


 それが、いちばん残酷なところだった。もっと頑張れ、なら頑張れる。でもこれは、頑張りでどうにかなる場所の外で起きている。あたしの身体は、どれだけ走り込んでも、あの子たちのようには変わってくれない。時計が、違う。


 小学生のころ、あたしは最強だった。誰より早く大きくなって、誰より早くうまくなった。あのころの「早い」が、いま逆の意味で牙を剥いている。早く咲いた花から先に、季節に追い越されていく。


 春に身体測定があった。アカネは百五十八センチで、去年から二センチしか伸びていない。名簿の隣のケンジは、百五十四から百六十三になっていた。九センチ。数字は、ぶつかったときの感触と、正確に同じことを言っていた。


 紅白戦が終わって、アカネはひとりゴールの裏にしゃがんでいた。


「アカネー」


 ハルだった。タオルを二枚持って、片方をこちらへ放ってくる。昔から変わらない、のんびりした声。ハルはうまくもへたでもなく、ただずっと、六人のなかの体温みたいな子だった。


「はい、タオル。今日の一点目、すごかったな。あの落とし方、アカネにしかできんやつ」


「……見てた?」


「見てたよ。三年のセンターバック、完全に置いていかれとった」


 アカネはタオルで顔を拭いた。拭きながら、少し笑った。


 ハルは、抜かれたことには触れなかった。気づいていないのか、触れないのか、わからない。ただ隣に座って、取れた点の話だけをした。それが慰めより効いた。慰められたら、負けを認めることになる。ハルは負けの話を、そもそも始めなかった。


「アカネにしかできん」の一言を、アカネはその日、何度か思い出した。


 今日、あたしは一点取った。それは弾き飛ばされたことでは消えない。二つは別の場所に置いておける。


 置いておけるが、並べると重さが違う。


 その夜、アカネは自分の脚を、じっと見ていた。


 走が帰ってきているらしい、と誰かが言っていた。


 あいつなら、この脚をどう視るだろう。


 卒業の日、あたしは走に言った。ピッチを降りないから、と。あれは走への言葉のふりをした、自分への約束だった。


(まだ、降りてない)


 弾かれても抜かれても、まだあたしはグラウンドに立っている。それだけは手放していない。


 手放していないまま、アカネの胸に、今年になって形を変えた問いが一つ、はっきり居座りはじめていた。


 抜かれていることは、もう知っている。


 知らないのは、なぜかのほうだ。


 なぜ男子はある日から、急に強くなるのか。背が伸びて力が乗って、身体が別のものに変わっていく、あの仕組みは何なのか。


 思い出したことがある。まだ六人でボールを蹴っていたころ、走は妙なことを言っていた。練習より、よく食べてよく寝たほうが強くなる、と。卵を食え、と真顔で言って、みんなで笑い飛ばした。あのときは、変なやつの冗談だと思っていた。


 でも走は、その変な理屈で、ケンジを最下位のまま底上げしていった。タケルの身体を変えた。


 あの子は、理由を持っていた。


 あたしは、持っていない。


 持っていないから、抜かれるたびに「なんで」で止まる。


(なんで、で止まるの、もう嫌だ)


 答えは、まだどこにもなかった。


 それでもアカネは、その夜、初めて「誰かに聞く」ではなく「自分で調べる」という順番のほうを考えた。


 夏の終わりの風が、網戸を静かに鳴らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。