第72話 幕間・アカネ ~抜かれる夏~
盆の二日目の陽が、地元のグラウンドを白く焼いていた。
その日は、部内の紅白戦だった。
前半に、アカネは一つ取った。
相手の背中を取って、ねじ込んだ。ネットが揺れる感触は昔と変わらない。膝から下に、じんと残る。
やった、と思った。
上手さは、まだ落ちていない。読みも、止める技術も、蹴る場所を決める眼も、同学年の男子の誰より上だと自分でわかっている。今日の一点は、この学年であたし以外に取れる子はいない。
変わったのは、上手さの外側だった。
以前なら当たり負けしなかった相手に、肩を入れられると身体が浮く。競り合いの最後の一押しで、じりっと後ろへ運ばれる。ボールへの一歩目で、並ばれる。去年まで考えなくてよかったことを、今年は一つずつ考えないといけなくなっていた。
去年の春、アカネはとなり町のエースを完封した。技で上回り、体でも当たり負けしなかった。今年の春、同じ相手とやった。技ではまだ上回れたのに、当たった瞬間に弾かれた。上手さで作った差を、身体が後ろから消していく。
ずっと、そうだった。
気づいていなかったわけじゃない。去年の夏から、少しずつ確かめてきた。
ただ、この日のはっきり度が、違った。
後半だった。
中盤で浮いたボールを、アカネと、白組のケンジが同時に狙った。
ケンジ。幼馴染の、あのケンジだ。小さいころ六人でいちばん足が遅くて、いちばんへたくそだった男の子。走の底上げをいちばん長く浴びて、それでもずっと最下位だった、あのケンジ。
肩がぶつかった。
次の瞬間、アカネの身体は宙に浮いていた。
弾かれたとわかったのは、芝に尻をついてからだった。ケンジはボールを収めて二歩前へ運び、それから振り返った。声変わりした低い声で、心底すまなそうに言った。
「あ、ごめん。アカネ、大丈夫か」
その「ごめん」が、いちばん深く刺さった。
悪意なら、まだよかった。抜いてやろうという顔でぶつかってきたなら、憎めた。でもケンジは、ただ普通に競って普通に勝って、本気で心配していた。当たり前のことをした顔で、手を差し出してきた。
ケンジの眼を、アカネは見てしまった。困っていた。幼馴染を弾き飛ばしたことを、この子は本気で困っている。抜いて嬉しいわけじゃない。ただ、身体が勝手に強くなって、勝手にアカネを追い越していく。ケンジにも止めようがないのだ。誰も悪くない。誰も悪くないことが、こんなに苦しいなんて、アカネは知らなかった。
(なんで)
アカネはその手を取らず、自分で立った。
練習量なら、あたしのほうが上だ。今も昔も、誰より走り込んでいる。上手さでも、まだ抜かれていない。なのに身体が、勝手に順位を書き換えていく。夏が来るたび隣の男子の背が伸びて、肩幅が広がる。それだけで、あたしの届かない場所へ行ってしまう。
努力の話じゃなかった。
それが、いちばん残酷なところだった。もっと頑張れ、なら頑張れる。でもこれは、頑張りでどうにかなる場所の外で起きている。あたしの身体は、どれだけ走り込んでも、あの子たちのようには変わってくれない。時計が、違う。
小学生のころ、あたしは最強だった。誰より早く大きくなって、誰より早くうまくなった。あのころの「早い」が、いま逆の意味で牙を剥いている。早く咲いた花から先に、季節に追い越されていく。
春に身体測定があった。アカネは百五十八センチで、去年から二センチしか伸びていない。名簿の隣のケンジは、百五十四から百六十三になっていた。九センチ。数字は、ぶつかったときの感触と、正確に同じことを言っていた。
紅白戦が終わって、アカネはひとりゴールの裏にしゃがんでいた。
「アカネー」
ハルだった。タオルを二枚持って、片方をこちらへ放ってくる。昔から変わらない、のんびりした声。ハルはうまくもへたでもなく、ただずっと、六人のなかの体温みたいな子だった。
「はい、タオル。今日の一点目、すごかったな。あの落とし方、アカネにしかできんやつ」
「……見てた?」
「見てたよ。三年のセンターバック、完全に置いていかれとった」
アカネはタオルで顔を拭いた。拭きながら、少し笑った。
ハルは、抜かれたことには触れなかった。気づいていないのか、触れないのか、わからない。ただ隣に座って、取れた点の話だけをした。それが慰めより効いた。慰められたら、負けを認めることになる。ハルは負けの話を、そもそも始めなかった。
「アカネにしかできん」の一言を、アカネはその日、何度か思い出した。
今日、あたしは一点取った。それは弾き飛ばされたことでは消えない。二つは別の場所に置いておける。
置いておけるが、並べると重さが違う。
その夜、アカネは自分の脚を、じっと見ていた。
走が帰ってきているらしい、と誰かが言っていた。
あいつなら、この脚をどう視るだろう。
卒業の日、あたしは走に言った。ピッチを降りないから、と。あれは走への言葉のふりをした、自分への約束だった。
(まだ、降りてない)
弾かれても抜かれても、まだあたしはグラウンドに立っている。それだけは手放していない。
手放していないまま、アカネの胸に、今年になって形を変えた問いが一つ、はっきり居座りはじめていた。
抜かれていることは、もう知っている。
知らないのは、なぜかのほうだ。
なぜ男子はある日から、急に強くなるのか。背が伸びて力が乗って、身体が別のものに変わっていく、あの仕組みは何なのか。
思い出したことがある。まだ六人でボールを蹴っていたころ、走は妙なことを言っていた。練習より、よく食べてよく寝たほうが強くなる、と。卵を食え、と真顔で言って、みんなで笑い飛ばした。あのときは、変なやつの冗談だと思っていた。
でも走は、その変な理屈で、ケンジを最下位のまま底上げしていった。タケルの身体を変えた。
あの子は、理由を持っていた。
あたしは、持っていない。
持っていないから、抜かれるたびに「なんで」で止まる。
(なんで、で止まるの、もう嫌だ)
答えは、まだどこにもなかった。
それでもアカネは、その夜、初めて「誰かに聞く」ではなく「自分で調べる」という順番のほうを考えた。
夏の終わりの風が、網戸を静かに鳴らしていた。




