第71話 十八分
七月の練習試合で、走は後半の二十二分にピッチへ入った。
残りは、十八分だった。
相手は隣県の強豪だった。中三が主体で、体格が一回り大きい。前半で二点取られていた。
鬼塚がベンチを立って、名前を呼んだ。
「東」
走は立ち上がった。
右サイドバックの三年が下がってくる。すれ違うとき、その人は何も言わなかった。走も何も言わなかった。
走がピッチに入るとき、ベンチの誰かが小さく言うのが聞こえた。
――もう終わりだろ、これ。
二点差で、残り十八分。そのとおりだった。
走は右に立って、まず対面を測った。
相手の左ウイングは、この試合で二点に絡んでいる。速い。前半のうちに、走のチームの右を三度破っていた。
三度とも、同じ形だった。
縦に仕掛けて、外を回って、折り返す。単純だが、単純だから止まらない。相手の三年は縦を切ろうとして、そのたびに内へ入られていた。
走の眼は、二本目で答えを出した。
(――踵で走ってる)
地面を強く叩いて加速する型だ。速い。だが一歩ごとの単価が高い。
しかもこの男は、前半の四十分で八本のスプリントを済ませている。
残り十八分。
走の脚は、まったく減っていない。
最初の二本は、走は何もしなかった。
外を空けて、走らせた。
男は気持ちよく縦へ抜けて、折り返した。誰にも合わなかった。二本目も同じにした。
三本目で、走は隙間を半歩だけ狭めた。
男は抜こうとして、一段強く踏んだ。
四本目、走はさらに半歩詰めた。男はもう一段踏んだ。
五本目で、外へ流れた。
六本目、男は縦をやめて、内へ切れ込んだ。
そこには海がいた。
走は前を向いて、走った。
残り九分で、走はこの試合で初めて上がった。
右のタッチライン際を、四十メートル。
手を上げた。海が半歩落ちるのを、振り返らずに確かめた。
最前線まで持ち上がって、ゴール前を見た。
レオがニアへ走り込む。
去年の秋、走は同じ場所へ、同じ球を出した。あのときは半歩速かった。レオの爪先が、球の後ろへ届かなかった。
――次は半歩遅らせる。だからレオはもう一回走ってくれ。
走はそう頼んだ。レオは「走る」と言った。
いま、レオが走っている。
走は一拍、待った。
待ってから、相手のセンターバックが中央を向いた、その一歩ぶんの隙間へ、低いボールを送り込んだ。
届いた。
一点目。
残り四分で、走はもう一度上がった。
二度目は、相手の左ウイングがついてこなかった。
ついてこられなかった、というほうが正しい。走の眼には、その脚がもう空なのが見えていた。前半に八本、後半に走が引き出したのが六本。十四本のスプリントは、この年代の身体が八十分で出せる上限に近い。
走が空けた右のスペースを、誰も埋めに来なかった。
走はそこを、もう一度使った。
クロスが跳ね返り、こぼれ球を財前が押し込んだ。
二点目。
二対二で、試合が終わった。
勝ってはいない。
だが二点差を追いついた十八分は、この日いちばん大きな出来事だった。
ベンチへ戻る途中で、レオが後ろから飛びついてきた。
「アズマ! 見たかおれの! な!」
「見た」
「あれアズマのパスが良すぎたわ。おれ足出しただけ」
「遅らせた」
「は?」
「秋に、半歩速かった。だから今日は遅らせた」
レオは三秒くらい、口を開けていた。
「……覚えてたの、それ」
「覚えてた」
「うっわ」レオは走の首に腕を回して、そのまま引きずった。「お前こわ! 執念深!」
「痛い」
「いいから! もう一回言って!」
「遅らせた」
「そう! それ!」
レオは満足して、走を離した。
財前が横を通って、走の肩を一度だけ小突いた。
「二点目、お前のクロスだぞ」
「跳ね返ったやつだ」
「跳ね返ったのを押し込むのが、俺の仕事なんだよ」
財前はそれだけ言って、行った。
走は自分の肩を、一度撫でた。
水を飲んでいると、眞鍋が寄ってきた。
タブレットの画面には、もう折れ線が出ていた。
「東さん、後半の十八分で二・七キロ走ってます」
「そうですか」
「同じ十八分で、相手の左は一・九キロです。しかも東さんのほうが、スプリント本数は少ない」
眞鍋は画面を指で叩いた。
「走ってないのに、距離が長いんです。これ、意味わかりますか」
「無駄が少ないからです」
「そう」眞鍋は満足そうにうなずいた。「これ、残しておきます」
鬼塚は、ミーティングで一言だけ言った。
「後半、追いついたのはよかった。ただ、前半で二点取られたのが全部だ」
それだけだった。
走の名前は出なかった。
選手たちは黙って聞いて、解散した。
走はその場に残って、自分の中で確かめた。
あの人は、間違ったことを言っていない。前半で二点取られたのが全部だ。それは事実だ。
そして、あの人の理屈からすれば、走はまだ何も証明していない。
二点差の消化試合を追いついただけだ。前半で流れを決めたわけではない。
(――足りない)
走はグラウンドの端に座って、スパイクの紐をほどいた。
今日の二点は、どちらも走が相手の脚を空にしたところから生まれている。
試合を動かしたのは、今日が最初ではない。
去年の秋、走は相手の得点源から仕事をする場所を取り上げて、一対〇を作った。その前には、十一人の形の一枚として右を詰まらせて、四対〇を作った。
今日新しいのは、時間のほうだった。
十八分しかなかった。十八分で相手の脚を空にして、二点差を消した。前半を丸ごと使わなくても、それはできる。
その事実を、走は握っている。
だが握っているだけでは、席は回ってこない。
あの人が欲しいのは、追いついた十八分ではない。最初の十分で相手を折る選手だ。
走にそれはできない。
できないまま、走はあの人に勝ちを持っていかなければいけない。
(……前半に、何かを作るしかないのか)
走はそこで、一度だけ手を止めた。
いままで走の前半は、後半のための貯金だった。
貯金しながら、同時に何かを作れないか。
その問いを、走はこの日、初めて自分に投げた。




