第70話 幕間・リク ~中途半端~
七月の県大会で、桐生陸は二点取った。
一点目は、右のタッチライン際からだった。相手の左サイドバックが半歩内へ入った瞬間に、その外を踏んだ。踏んだ足が、地面をちゃんと噛んだ。
噛む、というのがリクには大事だ。
小学四年の冬、この脚はそれができなかった。踏み込むたびに膝の下が割れるように痛んで、蹴る前に身体のほうが逃げた。逃げるくせに、走るのはやめられなかった。
いまは、逃げない。
二点目を決めたあと、リクはゴール裏まで走って、そのまま膝をついた。芝が濡れていて、膝が冷たかった。息が上がっていた。
気持ちよかった。
この脚は、動く。動かしたいところへ、動かしたい速さで動く。それだけのことが、リクにはまだ毎回うれしい。
試合が終わって、コーチが背中を叩いた。青嵐のジュニアユースで、中二の夏に二点取る選手は多くない。
順調だった。
誰に聞いても、そう言う。
その夜、リクは自分の左脚を触った。
膝の下。脛の骨の上のあたり。二年、ここが痛かった。
あの二年をどうにかしたのは、田舎の空き地にいた同い年の男が一人だけだった。
あいつは、リクの脚に触って「走るな」と言った。
二年、言われ続けた。
やめろとは言わなかった。走るな、今日は落とせ、この量は駄目だ。そればかりだった。リクは何度も無視しようとして、何度も止められた。
止められて、脚は治った。
いま二点取れているのは、その二年があるからだ。
その二年のあとに、リクが自分で積んだ二年もある。青嵐に入ってから、誰より早く来て、誰より遅く帰った。今日の縦の抜け方は、名古屋で覚えた。今日の二点は、あいつが知らない練習の上に乗っている。
どっちもある。
どっちもあるのに、片方だけを口に出すのが、リクにはうまくできない。
悔しい、とは、一度だけ言った。
小六の夏の終わりだった。あの空き地で、あいつの隣に座って、リクは「すげー、悔しい」と言った。あいつは「俺が、お前のいちばんの瞬間を、奪った」と言った。
リクは「奪ってない」と返した。
返して、そこで終わった。
終わらなかったものが、一つある。
――あのとき俺は、まだ走れた。出ていたら、勝ってたかもしれない。あの一日を、俺は自分で決めたかった。
感謝している。それは本当だ。本当のまま、これも残っている。
二つを並べて言えば、たぶん、あいつは黙って最後まで聞く。聞いて、正しいほうを取る。あいつはいつもそうする。
リクが欲しいのは、正しさではなかった。
その夏、リクは尾張の情報を聞いた。
同じ市内で、何度も当たっているクラブだ。誰かが噂で言っていた。
――尾張の東ってやついるだろ。あいつ、今年ベンチらしいぞ。
リクは、その一言を聞いて、自分でも驚くほど腹が立った。
なぜ腹が立つのか、しばらく分からなかった。
考えて、分かった。
リクが勝ちたいのは、あいつだ。
あいつがピッチにいない場所で、リクが何点取っても意味がない。二点取って背中を叩かれても、あいつが見ていないなら、それは何の証明にもならない。
去年の秋、一度だけ、正面から当たった。
新人戦の二回戦。リクは縦を一本通して、そのあと三本目で止められた。止められたとき、腹が立つより先に、面白い、と思った。あの試合のあと、リクは一週間、あの止め方のことばかり考えていた。
次があると思っていた。
そのあいつが、ベンチにいる。
リクは自分の左脚を見た。
この脚は、あいつが作った。
この脚で、あいつを抜きたい。
抜いて、初めて「これは俺の脚だ」と言えるようになる。
言えるようになったら、たぶん、礼を言える。
順番が、逆なのは分かっている。
礼を先に言えば済む話だ。
言えない。
言ってしまったら、リクの脚は永久にあいつのものになる。
リクにはもう一つ、飲み込んでいるものがあった。
風間空だ。
同じチームの、同じ学年。
あの男は練習に来ない日がある。来ても半分は喋っている。走り込みは最後尾で、筋トレは一度もやっているところを見たことがない。
それで、試合になると誰も止められない。
リクは中一のころ、一度だけソラに聞いたことがある。
なんでそんなに上手いんだ、と。
ソラは首を傾げて、「わかんない」と答えた。
嘘ではなかった。あの男は本当に分かっていない。
その日から、リクは自分の練習量を倍にした。
誰よりも走り、誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。
一年半やって、リクはチームで二番目にうまい選手になった。
二番目だ。
どれだけやっても、あの男との差が縮まらない。
リクは、自分が何なのかを知っている。
走は、設計で来る。理屈で身体を作って、理屈で相手を削る。
ソラは、天然で来る。何も考えず、何も積まず、それで全部を越えていく。
リクには、どちらもない。
あるのは量と気持ちと、痛みに耐える根性だけだ。
それは、この年代なら通用する。
通用しなくなる日が来ることを、リクはもう知っている。
(――中途半端なんだよ、俺は)
リクはそれを、誰にも言わない。
言えば、慰められる。慰められるのがいちばん嫌だ。
だから、リクは走に会いたかった。
あいつだけは、慰めない。
あいつは人の身体を数字で見る。数字で見る男の前でなら、リクは自分が何を持っていて何を持っていないかを、正確に測ってもらえる。
測ってもらって、そのうえで、抜く。
設計を、力でねじ伏せる。
それができたら、リクは初めて「俺は俺の脚で走った」と言える。
その夏、リクは走に会わなかった。
尾張とは、公式戦の組み合わせが当たらなかった。
冬に練習試合が組まれたと聞いたのは、十一月に入ってからだった。
リクはその日程を聞いて、初めて自分がずっとそれを待っていたことに気づいた。
(――出てこいよ)
ベンチじゃなく、ピッチに。
リクはそう思った。
思ってから、それが妙な願いだと気づいた。
敵が強いことを、こんなに強く願うやつがいるか。
いるらしい。ここに一人いる。




