第69話 処方箋
その日から、二人の地下の作業が始まった。
朝練の前と、全体練習の後。
走は海を空いた体育館に連れていった。
着地の衝撃を膝に与えないメニューを、走が一つずつ組む。片脚で立って、目を閉じて、身体の傾きを脳に覚え直させる。ゆっくりの動作で、新しい寸法の脚がどこにあるかを、神経に登録し直す。
地味だった。
汗もそれほどかかない。動きが小さいので、練習だと思われないこともあった。
江口のときのように、遊びの形にする手もあった。勝負にして、笑わせて、本人に気づかせないまま積ませる。走はそれを一度考えて、やめた。
この人には、数字で渡すほうが効く。
初日、走は一枚の紙に、その日のメニューを手で書いて海へ渡した。
走り込みは、一行もない。
かわりに並んでいるのは片脚立ちと、目を閉じてのバランス保持と、ゆっくりの切り返しだった。どれも秒数と本数で書いてある。行の脇には、なぜそれをやるかが短く添えてあった。
――処方/氷室 海 中二・六月
――片脚三十秒×三本。新しい脚の長さを脳に覚え直させる。
――重い負荷は、いまは足さない。伸びている最中の継ぎ目に、上乗せしない。
――睡眠は八時間を切るな。九時間が目安。昼に教えた動きを、脳が書き込む時間。
海はその紙を、少し黙って眺めていた。
処方箋みたいだ、とは言わなかった。
だが、そういう目をしていた。
「三日でひとつ、変わります」
「なにが」
「片脚で立っていられる時間です。いま、二十秒くらいでしょう」
海は答えなかった。数えたことがない、という顔だった。
三日後、海は何も言わずに、体育館の壁の時計を見ながら片脚で立った。
三十四秒だった。
「増えてる」
海が言った。
「十四秒」走は言った。「増えてます」
海は足を下ろして、自分の右膝を見た。それから走を見た。
「これは、試合で使えるやつか」
「まだです」
走は正直に言った。
「立って止まっていられる時間と、走りながら向きを変えられるのは、別の能力です。ここが伸びたからといって、明日のターンが軽くなるわけじゃない」
「じゃあ意味ないだろ」
「意味はあります」
走は言った。
「脚の位置が、脳へ届くようになってる。届かないと、そもそも指示が出せない。順番の、一つ目です」
海はもう一度、片脚で立った。
二本目は二十九秒だった。
「減った」
「疲れたからです」
「なんだよ、それ」
海が息を吐いた。笑ったように見えたが、走は確かめなかった。
「本当の作業は、寝てるあいだに進みます」
ある朝、走は海にそう言った。
「昼に脚へ教えたことを、脳が夜のうちに整理して、正しい配線に書き込む。だから睡眠を削らないでください。それと、伸びる骨と新しく張る腱の材料を食ってください。卵でも肉でも魚でもいい」
「地味だな」
「地味です」
「走り込みのほうが、やった気になる」
「なります」走は認めた。「やった気になる練習は、たいてい効きません。効く練習は、たいてい退屈です」
海は少しのあいだ黙って、それから短く言った。
「お前、そういうことを、よく平気で言えるな」
「言われたことがあるので」
「誰に」
走は下を向いた。
海はそれ以上、聞かなかった。
二週間で、試合の中の動きは何も変わらなかった。
海は毎朝来た。一度も休まなかった。
三週間目に、海が言った。
「変わらん」
「変わりません」
「いつ変わる」
「早くて二ヶ月です」
「二ヶ月」
「神経の配線を引き直す作業なので、筋肉より遅いんです」走は言った。「筋肉は三週間で反応します。神経は二ヶ月から三ヶ月。骨が落ち着くのは、もっとあとです」
海は自分の右膝を見下ろした。
「二ヶ月、この地味を続けるのか」
「はい」
「途中でやめたくなったら、どうすればいい」
走は少し考えた。
「その日は、量を半分にしてください」
「休めとは言わないんだな」
「ゼロにすると、戻るのが難しくなります。半分でも続いていれば、線は切れません」
海はしばらく黙って、それから短く言った。
「半分か」
「半分です」
「覚えとく」
海はストップウォッチを走の手から取って、自分で押した。
「お前、人を扱い慣れてるな」
走は答えなかった。
六月の終わりに、周りが気づき始めた。
朝、体育館の前を通る選手が、中を覗いていく。
中では、チームの司令塔が片脚で立って目を閉じている。その横で、右サイドバックの控えがストップウォッチを持っている。
声が出るようになった。
「氷室、何やってんの」
「リハビリ」
「怪我したっけ」
「してない」
それで会話は終わる。
誰も、それ以上は聞かなかった。
海が何かを始めたということだけが、部の中に薄く広がった。理由は誰も知らない。海が説明しないからだ。
走の名前は、その話の中に一度も出てこなかった。
七月に入った日の朝、海が一言だけ言った。
「昨日、切り返しで半歩が戻った」
走は顔を上げた。
「一本だけだ。次は戻らなかった」
「一本、出たんですね」
「一本だけだと言った」
「一本出れば、十分です」
走は言った。言ってから、自分の声が少し大きかったことに気づいた。
「そうか」
「はい。一本出るということは、その動きが身体の中に登録されたということです。あとは、それを出せる確率を上げるだけになります」
「確率」
「いまは十本に一本です。夏の終わりに三本になれば、試合で一回は出ます」
「一回出れば、十分だな」
「十分です」
海は壁に背を預けた。
しばらく、二人ともそのまま動かなかった。
それから、海がめずらしく長い言葉を返した。
「小学のとき、俺は誰にも相談しなかった」
走は黙って聞いていた。
「言えば、大人は走り込ませる。俺の身体は、それで一回壊れかけた。だから二度目は、誰にも言わずに諦めるつもりだった」
海は、ストップウォッチを持つ走の手を見ていた。
「なんで、お前に言ったんだろうな」
「明日も来ます」
「聞いてないぞ、それは」
「答えが出ないので」
海は短く息を吐いて、体育館を出ていった。
走はストップウォッチを止めて、ポケットに入れた。
この人が最初に走を見つけたのは、去年の四月だ。誰も走が何をしているか分からなかった日に、この人だけが「根性じゃない、設計だ」と言った。
あの日に見つけられたから、今日ここにいる。
だとすれば、走が渡しているものとこの人が渡してくれたものは、たぶん同じ量だった。




