第68話 設計してくれ
人けのない廊下で、海は自分の右膝から手を離さなかった。
「冬のあいだに、八センチ伸びた」
海は前を見たまま言った。
「一晩で背が変わるみたいな時期だ。喜ぶところなんだろうな、普通は」
走は黙って続きを待った。
「なにも、言うことをきかなくなった」
海の声は平らだった。
「一歩目が遅れる。ターンが重い。俺の頭は、ボールが来る前にもう次を見てる。なのに身体が、その速さに乗ってこない。落ちてくる予定の場所に、脚が半歩遅れて着く」
海が生きてきたのは、その半歩だった。
走は知っていた。身体で圧倒できない男が、盤面を先に読むことだけで同年代の頂に立ってきた。その一番の武器の土台が、伸びた骨のぶんだけ、ずれた。
「小学のころにも一度、これがあった」海は続けた。「そのとき俺は、身体に見切りをつけた。頭で生きればいい、と決めた。……決めたはずだった」
海は、そこで一度だけ言葉を切った。
「二度目が来るとは思ってなかった」
それから、この男には珍しく、言葉を選ぶのをやめた。
「怖いんだ」
走は顔を上げた。
「毎朝、少しずつ下手になっていく自分を、自分で見てる。誰にも言えない。言ったら、その日から周りの見る目が変わる」
諦めた人間の顔だ、と走は思った。
もう一度だけ諦めるために、それを確かめに来た顔。
「動いてみてください」走は言った。
海は怪訝そうに、それでも数歩の切り返しをやってみせた。
右へ踏んで、左へ返す。
走の眼の裏で、診断の像が淡く灯る。膝の継ぎ目、太ももの前、着地の一瞬。像は嘘をつかない。
《診断/氷室 海・中二》
骨 ――― 冬のあいだに八センチ。まだ伸びている。
腱と神経 ――― 追いついていない。
地図 ――― 頭の中の寸法が、前の身体のまま。
判定 ――― 壊れてはいない。引き直せば、戻る。
壊れているのではなかった。
伸びている途中で、配線がまだ引き直されていないだけだ。頭のなかの地図は前の身体のままで、脚は新しい長さになっている。地図と身体が、いまはただ、噛み合っていない。
「壊れてません」走は言った。「伸びてる途中で、配線が追いついてないだけです。前の身体の寸法で覚えた動きを、いまの寸法で引き直せばいい。それだけです」
海の眉が、わずかに動いた。
「根性で乗り越えろって話なら、聞かない」
海の声に、初めて硬い棘が混じった。
「もう散々、そう言われた」
「逆です」
走は首を振った。
「いまの海さんの膝に重い負荷を乗せたら、継ぎ目が壊れます。走り込みで削るのは最悪手だ。やることは、無衝撃で神経の配線を引き直すこと。負荷を足すのは、身体が出来上がってからでいい。順番を、間違えなきゃいい」
海は、しばらく走を見ていた。
「戻らなかったら?」
その問いに、走は即答しなかった。
安請け合いは、この男に一番効かない毒だ。
「戻るかどうかは、途中でやめた奴には、一生わかりません」
走は言った。
「俺は、それだけが嫌なんです。確かめないまま蓋をするのが」
嘘ではなかった。
ただ、その言葉の裏にある本当の重さを、走は口にしなかった。確かめられないまま終わった男が、どんな顔で六十年を生きるか。それは胸の底に沈めたまま、海には渡さない。
渡すのは、方法だけでいい。
「時間はかかります」走は続けた。「半年、いや、海さんの骨が落ち着くまで一年。そのあいだ、派手には戻らない。それでもやりますか」
海は右膝から、ようやく手を離した。
「……頭が、まだ生きてるうちに」
海は低く言った。
「身体を、そこに追いつかせたい。頼む」
この男が、誰かに何かを頼んだ。
走はそれを、静かに受け取った。
受け取りながら、腹の底が少し熱くなっているのに気づいていた。
廊下を戻りながら、走は自分の手が少し冷たいことに気づいた。
人の一年を預かるのは、初めてではない。
リクの膝を、走は二年見た。走るな、今日は落とせ、この量は駄目だ。あの二年で、走はこの重さを何度も持った。前の生では、何百回も持った。
違うのは、頼まれたことだった。
リクのときは、走が勝手に見つけて、勝手に止めた。江口のときは、遊びの形にして、本人に気づかせもしなかった。
海は、自分から来た。誰にも言わずに諦めるつもりだった男が、走のところへ来て、頼む、と言った。
その一言は、責任と同じ重さで、うれしかった。
走は自分の掌を、一度だけ握って開いた。
冷たいのは、緊張ではない。責任のほうだった。
責任だけでも、なかった。
去年の秋、走はこの人に背後を預けて、一本だけ気持ちよく前へ出た。あのとき走の脚は、盤面を数える眼と繋がって、十一人の中の一つになった。
もう一度、あれをやりたい。
それは走自身の欲で、この人の膝とは何の関係もない。
関係のないものを、走は消さずに持っていくことにした。




