第67話 黙って隣で待つ
六月に入って、走のウェイト場の時間に、先客がいた。
財前だった。
まだ誰も来ない時間だ。走がいつも一人でやっている時間だった。
「早いな」
財前はそう言って、それ以上は何も言わなかった。
走は自分の器具へ行って、いつもどおり始めた。十一・二五キロ。八回。そして三分。
ストップウォッチを置いて、座った。
財前は少し離れた場所で、自分のメニューをやっていた。走の三倍近い重さを、走の半分の速さで挙げている。
一セット目を終えて、財前が座った。
そのまま、動かなかった。
走が二セット目に入るころ、財前もほぼ同じタイミングで立ち上がった。
走は口を挟まなかった。
財前も、何も言わなかった。
気まずくはなかった。
去年の合宿で、走は財前の部屋の入口で一度止まっている。あのときは、水と塩を渡したあとに何を言うかが決まっていなかった。いまは、何も言わなくていい。同じ時計を見て、同じ三分を待っている。それだけで、その三分は去年より短く感じた。
知らないことは、まだ多い。この男が休みの日に何をしているのか、どの教師を嫌っているのか、走は二年いて一つも知らない。
知りたいと思うようになったのは、今年に入ってからだった。
三日続いた。
四日目に、財前が口を開いた。
「三分だろ」
「……はい」
「なんで敬語だよ」
「三分だ」
「うん」
それだけだった。
財前は理由を聞かなかった。走も説明しなかった。
五日目には、財前が自分のストップウォッチを持ってきていた。
六日目に、財前が一言だけ言った。
「二セット目が、違う」
走は顔を上げた。
「前は、二本目からきつくなってた。三分空けると、二本目も一本目と同じ重さに感じる」
財前は自分の掌を見ていた。
「同じ重さなのに、感じ方が違うって、変だろ」
「変じゃない」
走は言った。
「一本目に使った燃料が、三分でだいたい戻るからだ。二分だと、七割くらいしか戻らない。同じ重さでも、七割の身体で持ち上げることになる」
「じゃあ、二分でやってた去年のおれは」
「二本目からは、七割の身体で挙げてた」
「無駄かよ」
「無駄じゃない」
走は言った。
「挙げてたのは財前だ。身体はちゃんと変わってる。同じ量で、もっと返ってきたはずだってだけだ」
財前は少しのあいだ黙った。
それから、鼻から息を吐いた。
「腹立つな」
「すまない」
「謝んなって」
「じゃあ、どうすればいい」
「もっと早く言え」
「聞かれてない」
「聞かれる前に言え」
「難しい注文だな」
「難しくねえよ」
財前はそう言って、自分のストップウォッチを走のほうへ放って寄越した。
「三分、押しといて」
走はそれを受け取って、二人分の時計を持った。
その日から、財前は三分空けるようになった。
説得はしなかった。走も勧めなかった。財前は自分で試して、自分で気づいて、自分で変えた。
誰にも言わなかった。
二週間後、同学年の一人が財前に聞いた。
「財前、最近なんか休んでるくない?」
「休んでる」
「なんで」
「そのほうが挙がるから」
それで終わりだった。
誰も、走のところへは来なかった。
走はそれでよかった。走が説明すれば、それは「走らない理由」になる。財前が言えば、それは「そのほうが挙がる」になる。
同じ内容で、届き方がまるで違う。
その週、走は江口の走りを見ていた。
紅白戦の途中だった。江口は右のサイドハーフで、走のすぐ前にいる。前半の半ばに、三本続けて上下動していた。
去年の江口なら、三本目で息が上がっていた。
上がっていなかった。
走は自分の中で、数字を確かめた。江口の顔色は春から戻っている。着地のときの膝の角度も、去年より内へ落ちない。
この一年で、この男の身体は静かに変わっていた。
誰も気づいていない。江口自身も気づいていない。
走が皿を一品ずらして、水差しを先に取って、部屋の真ん中で片脚立ちの勝負を仕掛けた。それだけのことだ。
効いた理由を、誰も知らない。
紅白戦が切れたとき、江口が走の横を通った。
「東くん、おれ最近、けっこう走れるようになった気がする」
「そうか」
「なんか、身体が軽いんだよなー」
「よかったな」
「東くんは? 重り持ち始めたって聞いたけど」
「持った」
「何キロ?」
「十三」
「うわ、少な」
「少ない」
「認めるなよ」
「事実だ」
「東くんさあ、そういうとこだよ」
「どういうとこだ」
「知らん」
江口はけらけら笑って、走っていった。
走はその背中を目で追って、少しのあいだ、笑ったままでいた。
少ない。そのとおりだ。
同学年の平均の半分にも届いていない。三ヶ月後でも届かない。半年後でも、たぶん届かない。
届く日を、走は逆算している。
中三の秋に、継ぎ目が落ち着く。そこから一年で、走の身体は初めて本気の負荷を受け取れるようになる。それまでは、通り道を作る作業だ。
二年後に爆発するものを、いま二年ぶん先払いしている。
払っているあいだ、誰にも見えない。
見えないが、朝のあの部屋には、もう一人いる。
六月の終わりに、走はもう一度だけ、鬼塚の眼を意識した。
紅白戦で、走は右サイドに入った。相手は同学年だった。走はいつもどおり、前半を無駄なく守った。
鬼塚はピッチの反対側を見ていた。
こちらを一度も見なかった。
走は最後まで、いつもどおりに走った。
その日の練習が終わって、走は自分に一つ確認した。
(――見られていないときに、いつもどおりやれるか)
やれた。
それは、走にとって悪くない一日だった。




