第66話 三分
問題が起きたのは、三日目だった。
その日、ウェイト場には二年が四人いた。走が入ったとき、すでに騒がしかった。誰かが記録に挑戦していて、周りが数を数えている。
走は端の器具で、自分のメニューを始めた。
十キロ。八回。そして、三分。
ストップウォッチを見て、走は座っていた。
一分が過ぎた。二分が過ぎた。
「東、終わった?」
同学年の一人が声をかけてきた。
「まだです」
「え、座ってるじゃん」
「休んでます」
その子は変な顔をして、行ってしまった。
三分が経って、走は二セット目に入った。
同じ重さ、同じ回数。
力の出方が、一セット目とほとんど同じだった。それが確かめたかったことだ。
《自己所見/東 走・中二》
一セット目 ――― 十キロ、八回。
二セット目 ――― 同じ重さ、同じ回数、同じ出方。
結論 ――― 三分は、正しい。
全力を出すための燃料は、休んでいるあいだに戻る。三分あれば、ほとんど戻る。二分で次に行くと、二本目は二本目にならない。同じ重さでも、身体の中で起きていることが違う。
走はそれを、六十八年ぶんの知識として持っていた。
問題は、それが外からは見えないことだった。
「東。お前、さっきから何してんの」
三年の声だった。
振り返ると、右サイドバックの先輩が立っていた。走がその席を狙っている相手だ。
「メニューをやってます」
「休んでばっかりだろ」
「三分空けてます」
「三分?」
先輩は本気で分からないという顔をした。
「なんで」
走はそこで、一秒だけ迷った。
説明すれば、たぶん理解はされる。この人は馬鹿ではない。だが理解と納得は違う。この場所で「休むために休んでいる」と言えば、それは休む理由を上手に説明した子供にしかならない。
眞鍋の言葉が頭に戻ってきた。
言葉で言うと、走らない理由に聞こえるので。
「……効率が落ちるので」
走はそれだけ言った。
「ふうん」
先輩は少し笑った。悪意のある笑い方ではなかった。もっと悪いものだった。
「まあ、お前のペースでやれば」
どうでもいい、という顔で、先輩は行ってしまった。
走は三セット目を、いつもどおりやった。
いつもどおりやれたが、腹の底は重かった。
悔しい、と走ははっきり思った。あの人は走を敵だと思っていない。敵だと思われていないことが、いまはいちばん効いた。
次の日から、走は少し早い時間に行くようになった。
誰もいない時間だ。
やることは同じだった。重さも、回数も、三分も変わらない。変えたのは、見られる場所を減らしたことだけだった。
走はそれを、逃げだとは思わなかった。
思わなかったが、少し嫌だった。
誰もいない部屋で、走はバーを胸の前に構えた。
構えると、腹の重さは一度どこかへ行った。持ち上げれば、力が腰を通って抜けずに上がる。それは昨日と同じだった。先輩が笑っても、この十キロの通り道は変わっていない。
走はそこだけは、素直に面白かった。
一週間後、鬼塚が通りかかった。
走は三セット目のあいだの三分にいた。ストップウォッチを持って、座っていた。
鬼塚は扉のところで足を止めた。
走は立ち上がろうとして、やめた。立ち上がれば、三分が崩れる。
二人はそのまま、十秒ほど動かなかった。
鬼塚が口を開いた。
「休憩か」
「はい」
「長いな」
「三分です」
鬼塚はしばらく走を見ていた。
それから、何も言わずに行った。
扉が閉まったあと、走はストップウォッチを見た。三分まで、あと四十秒あった。
走は座ったまま、その四十秒を待った。
(――いま、また減点された)
走はそう受け取った。
あの人が走に求めているのは、最初の十分で流れを決める選手だ。その人の眼に、三分座っている中学二年生がどう映るか。
走の前半の走り方と、いまの休憩は、外から見れば同じものだ。
どちらも「出していない」。
走は膝の上で指を組んで、待ちながら、数え直した。
この部屋では、まだ一人だ。
部屋の外は、そうでもない。去年の四月、走が何をしているか誰にも分からなかった日に、海だけが「根性じゃない、設計だ」と言った。今年の四月には、眞鍋が去年の四十分を全部表にして持ってきた。
説明できない場所があるだけで、誰にも届いていないわけではない。
順番の問題だ、と走は思った。
走は三セット目を終えて、器具を片付けた。
やめる理由には、ならなかった。
三分空けなければ、二セット目は二セット目にならない。二セット目が本物でなければ、この十キロに意味がない。意味のない十キロを二百回やっても、走の身体は変わらない。
変わらない身体で試合に出ても、走は勝ちを持ってこられない。
勝ちを持ってこられなければ、あの人は絶対に動かない。
順番はそうなっている。
その夜、走はノートに書いた。
――三分。いまは、この部屋では説明しない。
書いてから、少し考えて、その下に足した。
――説明できるようになるのは、勝ってからだ。
走は電気を消して、布団に入った。
去年、走は「言えない場所へ来て、言わずにやる方法を覚えた」と書いた。
今年は、それだけでは足りない。
言わずにやって、そのうえで、結果のほうから喋らせる。
そこまで行かないと、この人には届かない。




