第65話 初めて持つ日
重りの話は、テスト期間より少し前に戻る。
五月の終わりに、走はウェイト場の扉を開けた。
夕方だった。中は誰もいない。
去年の六月、走はこの同じ場所で、五分立って引き返した。あのとき棚のいちばん軽い円盤は一・二五キロで、走はそれにも触らなかった。
一年経っている。
走は自分の身体を、扉の前でもう一度確かめた。
一五五センチ、四六キロ。四月から二センチ、二キロ。まだ伸びている最中だ。足のサイズはこの半年で一・五センチ動いた。
伸びている最中の骨は、いちばん脆い。
継ぎ目が閉じていく途中で、そこは骨よりも柔らかい。強い力が繰り返しかかれば、骨より先にそこが負ける。走が去年から避けてきたのは、まさにこの時期だった。
だから走は、今日も重い物は持たない。
(――順番を、変えるだけだ)
走が一年待ったのは、重りそのものではない。
重りを持てば身体が壊れる、というのは正確ではなかった。正しい重さを正しい角度で、決めた回数だけ扱うなら、この年代でも身体は作れる。壊れるのは、記録を追ったときだ。
去年のこの部屋には、それがあった。
誰がいちばん挙げたかで線が決まり、翌週にはそれが基準になる。走が輪の外にいたのは、重りが怖かったからではない。その線の引き方に付き合えば、必ず継ぎ目を潰すと分かっていたからだ。
いまは、誰もいない。
基準を決めるのは、走だけだ。
正しいやり方そのものは、いまや誰でも調べられる。だが情報は、目の前のこの脚に、今日は何キロまで乗せていいかまでは教えてくれない。それを決められるのは、この一年、自分の身体を毎日測ってきた者だけだ。走の武器は、知っていることではなく、それを自分の身体に当てられることだった。
走は棚から、いちばん軽い円盤を二枚下ろした。
合わせて二・五キロ。バーを合わせても、十キロに届かない。
同学年の何人かは、この三倍を挙げる。財前はもっと挙げる。
走はその十キロを、胸の前でゆっくり押し上げた。
上がった。
あっけないほど、静かに上がった。
走はバーを下ろして、もう一度上げた。手のひらに、金属の冷たさと、押し返してくる重さがある。一年、この感触を待っていた。
八回で止めた。
あと五回はできた。やりたかった。腕はまだ余っているし、息も上がっていない。もう一セット足しても、たぶん今日は何も起きない。
走はバーを置いた。
フォームが崩れる一歩手前を超えない。それが、この一年で走が自分に課したただ一つの上限だった。上限は、余っているときにこそ守る意味がある。
三セット。セットのあいだに、三分。
三分は長い。ストップウォッチを見ながら、走は自分が何もしていないことを確認していた。
二種目目に移る前に、走は自分の身体を測った。
胸の前で押した重さが、肩のどこを通って、腰のどこで受け止められたか。去年の冬から積んだ支持の練習が、その道を通していた。
通っている。
力が、途中で逃げていない。
走は少しのあいだ、そのことに集中した。
この十キロは、他人が見れば何の意味もない数字だ。だが去年の走がこれをやっていたら、力は途中で腰から抜けて、腰にだけ負担が残っていた。
一年、自分の体重だけで身体を支える練習をした。その一年が、この十キロを正しく通すためにあった。
(……ここからだ)
走は三種目目に移った。
やることは、去年ノートに書いたとおりだった。
一つ。当たった瞬間に流れない身体を作る。
二つ。地面を押した力を、上体まで途中で逃がさずに通す。
三つ。それを、継ぎ目に負担を残さない範囲でやる。
三つ目のためには、増やし方が全部だった。
走は一週間に一・二五キロずつ増やす計画を立てた。
一週間は、一週間だ。三日目に足さない。調子がいい日にも足さない。増やすのは週の頭の一回だけで、そこから七日は同じ重さで丁寧にやる。
一年で六十五キロ増える計算になる。もちろんそのとおりにはいかない。途中で必ず止まる。止まったら、そこで止める。止めた重さで、丁寧にやる。
急がない。
急ぐと、いちばん柔らかいところが先に壊れる。走が前の生で何百本と見てきたのは、その脚だった。
三十分で、走は切り上げた。
汗はほとんどかいていない。息も上がっていない。傍から見れば、遊んでいるようにしか見えない。
扉を閉めて、廊下へ出たところで、レオとすれ違った。
「あれ、アズマ。中いた?」
「いた」
「まじで。持ったの?」
「持った」
「おおー! 何キロ?」
走は答えるべきかどうか、一瞬迷った。
「十」
「じゅっ……」レオは口を開けて、それから盛大に笑った。「アズマ、それおれの半分以下だぞ!」
「知ってる」
「一年待って、それ?」
「それだ」
「一年!」
「一年だ」
「なんで待ったの」
「待つ価値があった」
「ぜんぜん分かんね」
「分からなくていい」
レオはまだ笑っていた。
走も笑った。笑いながら、明日もここへ来るのが楽しみだと思っている自分に気づいた。
「アズマ、明日も来る?」
「来る」
「じゃあおれも来るわ。半分以下の男を見に」
「見に来なくていい」
その夜、ノートに一行書いた。
――十キロ×八回×三セット。
書いてから、その下にもう一行足した。
――七歳の米袋から、七年。
飛騨の物置に、米袋が転がっていた。走が七歳のとき、持ち上げようとして、持ち上げずにやめた重さだ。
あのとき走は、七歳ぶんの身体で三十キロを持とうとした。
持たなかった。
あの日から今日まで、走はずっと同じことをやっている。持てるかどうかではなく、持っていいかどうかで決める。
七年かかって、ようやく十キロだった。
走はページを閉じて、電気を消した。
目を閉じてから、手のひらにまだ残っているバーの感触を、もう一度思い出した。
来週は、十一・二五キロだ。




