第64話 テスト期間
六月の第二週から、部活が止まった。
中間テストの一週間前だ。学校の決まりで、この期間はクラブも活動を落とす。全体練習が週二回になり、寮の自習室に電気がつく。
同学年が、めずらしく静かになった。
「東くん、勉強どうしてる?」
夕食の席で、江口が聞いた。
「普通にやってる」
「まじで。おれ何もやってない」
「一週間ある」
「一週間で終わる量じゃないんだよなー」
江口はそう言って、味噌汁を飲んだ。
走は箸を止めなかった。
自習室に、寮生が十人ほど集まっていた。
走は端の席で、教科書を開いた。
中学二年の数学だった。
走はそれを、二十分で終えた。
終えてから、しばらくページを見ていた。
簡単すぎる、と思うことに、走はもう慣れていた。慣れているが、毎回、少しだけ落ち着かなくなる。
走は前の生で、この内容を四十年以上前に通り抜けている。そのあと高校へ行き、医学部に入った。六年やって、国家試験を通った。臨床に出て、四十年近く人の身体を診た。
その男が、二次関数の練習問題を解いている。
(――何をやってるんだ、俺は)
走はその考えを、すぐに畳んだ。
畳んだが、完全には消えなかった。
問題は、速く終わることではない。
速く終わることを、隠さなければならないことだった。
走はいつも、他の子と同じくらいの時間、机に向かっている。実際に必要なのは、その三分の一だ。残りの三分の二で走がやっているのは、身体の帳簿をつけることと、対面の癖を思い出すことだった。
勉強しているふりだ。
なぜそうするのかというと、一度、テストの点が理由でおかしな空気になったことがあるからだ。
一年の最初のテストで、走は上から二番目だった。
二番目にしたのは、走の判断だった。全部解けば一番になる。走は最後の大問を、途中で止めた。
それでも二番目だった。
あのとき、教室の空気が少し変わった。サッカーで名古屋に来た岐阜の子が、勉強もできる。その情報は、走を「そっち側の人間」からさらに一段遠くへ運んだ。
以来、走は加減している。
加減していることを、誰にも言っていない。
三日目の夜、自習室で財前が唸っていた。
走の二つ隣の席だった。
数学のページを開いたまま、二十分、ペンが動いていない。
走はそれを、視界の端で見ていた。
どこで詰まっているかは、ノートの余白を見れば分かる。式の変形を一箇所、符号ごと間違えている。そこから先が全部合わなくなっている。
言えば、三十秒で終わる。
走は、言わなかった。
言えば、また距離が開くからだ。
これは、身体の話と同じ構造だった。
走が正しいことを言うと、相手は正しくなる。正しくなったぶん、走が上に行く。上に行った人間とは、対等な関係が作れなくなる。
リクの膝。江口の血。財前の塩。
全部、走が正しくて、相手が受け取る形だ。
受け取る側は、いつまでも受け取る側になる。
(――だから、言わない)
走はそう決めていた。
決めていて、その決め方が正しいかどうかは、分からなかった。
言わなければ、財前はこの問題を解けないまま明日を迎える。走が黙っていることで守っている「対等さ」は、財前が困ることと引き換えになっている。
どちらが、この男のためなのか。
走には判断がつかなかった。
三十分後、財前が顔を上げた。
「東」
「……ああ」
「これ、分かる?」
財前がノートを差し出してきた。
走は少しのあいだ、それを見た。
自分から言うのと、聞かれて答えるのは、まったく違う。
聞かれたなら、答えていい。
「符号」
走は言った。
「三行目。マイナスがついたままになってる」
財前はノートを見て、それから「あ」と言った。
「……くそ」
「よくある」
「お前、ぱっと見て分かんのかよ」
「見えた」
「気持ち悪」
「そう言われても困る」
「困れよ」
財前は書き直しはじめた。書きながら、顔も上げずに言った。
「次のページも見ろ」
「見るのか」
「見るんだよ」
走はノートを引き寄せた。次のページは、符号ではなく、そもそも立式が違っていた。走がそこを指すと、財前は「うわ」と言って頭を掻いた。
「お前、学年何番」
「言わない」
「言えよ」
「言わない」
「うっわ、感じ悪」
財前は笑っていた。走も笑って、ノートを返した。
自分の席に戻ってから、走は少しのあいだ、シャーペンを回していた。
聞かれた。
この男は、困ったときに走の名前を呼ぶ。四月に「何様だよ」と言った口が、いまは二つ隣から「東」と呼ぶ。
悪くなかった。
その夜、走はノートに書いた。
――聞かれるまで、言わない。
ペンを止めて、その下に足した。
――聞かれるのを、待っている。
二行目を書いてから、走は少しのあいだ動かなかった。
待っている、というのは、こちらから行かないということだ。
走が誰かと繋がった経路を、走は数えてみた。
リクは、脚を痛めていた。海は、身体が言うことをきかなくなりかけていた。財前は、いま数学で困っている。江口は、走が勝手に皿を押しつけた。
レオだけが、違う。
あの男は、走が抜かれて芝に膝をついた日に、何の理由もなく手を差し出してきた。
走はその差を、しばらく見ていた。
自分から、何も持たずに近づいたことがない。そう書こうとして、走はペン先を紙に置いたまま止めた。
三月に、寮の食堂で、走はまだ名前も知らない新入生の隣に座った。何も持っていなかった。飯の話しかしなかった。
できないわけではない。
できるが、限られている。同じピッチに立っている相手か、困っている相手か。その二つの外へは、まだ足が出ない。
教室の前の席の男子とは、四月から二ヶ月で、六回しか喋っていない。回数を覚えているというのが、そもそも答えだった。
走は書きかけの一行を、途中で消した。
かわりに、こう書いた。
――ピッチの外は、まだ遠い。
テストは四日後だった。




