第63話 前世の輪郭
五月に入って、走はベンチに慣れた。
慣れた、というのは正確ではない。順番が固定された、というほうが近い。
試合には出る。だいたい後半の最後の十分か、点差がついたときだ。走にできることはほとんどない。それでも走は毎回、全力で八分を走った。
眞鍋がその八分を全部測っていた。
「東さん、今日の八分の走行距離、先輩の最後の八分より三百メートル多いです」
「そうですか」
「意味ないですけどね、いまは」
眞鍋は正直だった。走はそれが嫌ではなかった。
練習では、走は毎日同じことをやった。
朝に自転車を回す。全体練習に出る。終わったら、地面に手をついて身体を支える練習をする。片脚で立って、押されても動かない。転がった状態から一動作で立つ。
誰も見ていない。
去年の冬に設計した内容を、走はそのまま続けていた。継ぎ目が閉じるまでは、重りに触れない。触れないかわりに、力を通す道を先に作る。
地味だった。
地味だが、四月に財前と競って一度残った。あの一度は、この地味の上に乗っている。
その夜、走は食堂で献立表を見ていた。
五月の第三週。木曜は魚が薄い。金曜は青いものが少ない。走は自分の皿の順番を組み替える計算をしていた。
汁物を先に飲む。青いものを次に。米は最後。
その順番を頭の中でなぞったとき、ふいに、覚えのない場所から言葉が返ってきた。
――汁から飲みなさい。
走は箸を止めた。
誰の声か、分からなかった。
だが、聞いたことがある。
部屋に戻ってからも、その一行が消えなかった。
走は布団に入って、天井を見た。
六歳のときに戻ってきた記憶は、完全ではない。六十八年ぶんの人生が、そのまま全部並んでいるわけではない。覚えているのは、輪郭の濃いところだけだ。
医学部の試験。当直の夜。壊れた脚を持ってきた子供たち。父にピッチから下ろされた日。そして、病院のベッドで薄れていく意識。
その隙間に、薄いものがいくつかある。
薄すぎて、いままで拾わなかったもの。
(……食卓だ)
走はそこに、手を伸ばした。
食卓があった。
狭い台所と、四人がけの机。走はそこで、たいてい早く食べ終えて出ていこうとしていた。練習に行くから。友達が待っているから。
その背中に、声がかかった。
――汁から飲みなさい。
――ちゃんと嚙みなさい。
――そんな時間に寝て、明日走れるの。
――足が痛いなら、今日は休みなさい。
走は布団の中で、目を開けた。
全部、聞いた。
毎日のように聞いた。うるさいと思った。分かってると言って、聞かずに出ていった。夜更かしをして、菓子で腹を膨らませて、痛い足で走った。
あのころ走は、それを反抗だとも思っていなかった。
ただ、面倒だった。
走は身体を起こした。
いま、走がこの寮でやっていることを、一つずつ数えた。
汁物を先に飲む。よく嚙む。十時に寝る。痛い日は落とす。
全部だった。
一つ残らず、全部、あの食卓で言われたことだった。
走はしばらく、動けなかった。
六十八年かけて医学を積んだ。六歳からやり直して、一年かけてこの身体を作った。そして走がいまやっていることは、あの台所で聞き流した言葉と一字一句同じだった。
あの人は、医学を知らなかった。
根拠も、機序も、たぶん一つも言えなかった。それでも、正しいことだけを毎日言っていた。
(――知ってたのか)
走は自分の膝を、両手で押さえた。
知っていたはずがない。あの人はただ、親が子に言うことを言っていただけだ。
そのただの言葉が、六十八年ぶんの医学と、同じ場所を指していた。
走の喉の奥に、覚えのない熱が上がってきた。
悔しさではなかった。
もっと単純で、もっと処理のしづらいものだった。
懐かしい、と思ってしまった。
あの声を、走はもう一度聞いてみたかった。うるさい、と思いながら聞き流した声を、いまなら最後まで座って聞ける。
(なんで、俺は、あれを聞かなかった)
聞いていれば、何かが違ったのか。
分からない。あのとき走の身体がどこまで伸びる予定だったのか、いまとなっては誰にも確かめようがない。菓子と夜更かしと痛い脚が、走の伸びしろをどれだけ削ったのかも、分からない。
分からないまま、走は前の生を終えた。
だが、そこで走の思考は止まった。
同じ人が、走からサッカーを取り上げた。
お前はもう十分やった。そう言ったのは、あの食卓で汁から飲みなさいと言っていたのと同じ口だ。
走はその二つを、同じ人の中に置くことができなかった。
正しいことを毎日言っていた人が、いちばん大事なところで走の伸びしろに蓋をした。
二つは矛盾していない、という気もした。あの人は一貫して、走の身体のことを心配していたのかもしれない。心配のいちばん強い形が、あの日の言葉だったのかもしれない。
そこまで考えて、走は頭を振った。
(――まだだ)
いまそれを認めたら、下ろされた日の自分に嘘をつくことになる。
あの日、走はまだ走れた。
走れたことだけは、走が確かめる。確かめてから、その先を考える。
走は布団に戻った。
目を閉じる前に、一つだけ思った。
あの人の言葉が正しかったなら、この身体で証明できる。
いま走がやっていることは、全部あの人の言葉の上に乗っている。だからこの身体がどこまで行くかは、そのままあの人の答え合わせになる。
それは、赦しとは違うものだった。
だが六歳のときからずっと走の中にあった名前のない何かが、この夜、初めて輪郭を持った。
輪郭を持っただけだ。
名前をつけるには、まだ早かった。
翌朝、走は五時に起きて、自転車を回した。
川沿いの道は、五月の終わりの匂いがした。ペダルを踏み込むと、腿の裏が素直について来る。冬に入れておいた道を、力がまっすぐ通っていく。
走は、それが好きだった。
証明のためでも、償いのためでもなく、単に、脚が言うことをきくのが面白い。
寮に戻ると、食堂で江口が寝ぼけた顔をしていた。
「東くん、何時に起きてんの」
「五時」
「頭おかしいんじゃない?」
「そうかもな」
江口が笑った。走も笑って、味噌汁を先に取った。
昨夜の食卓は、四十年以上前の、もう誰も座っていない台所にある。
今朝の食卓には、隣に江口が座っている。
走はそのことを、はっきり数えた。




