第62話 時間軸が違う
「東」
声をかけてきたのは、白石だった。
若手のコーチで、この一年、走の設計を唯一おもしろがってくれた男だ。手元にタブレットを抱えている。眞鍋のものと同じ型だった。
「監督の言葉、真に受けるな」
白石は声を落とした。
「あの人は、勝つチームしか信じない。勝てるチームにしかスカウトも注目も集まらん、そういう時代を生きてきた人だ。理不尽じゃない。ただ、時間軸が違うんだ、お前とは」
「時間軸」
「あの人は今日勝ちたい。お前は、最後に勝ちたい」
白石は肩をすくめた。
走は黙っていた。
慰めには、ならなかった。理由が筋の通ったものであるほど、覆すのは難しい。無能な壁なら殴って壊せる。有能な壁は、こちらが有能さで上回るまで、びくともしない。
「……ただ、それだけでもない」
白石が続けた。
「あの人がお前を外した理由は、時間軸のほかに、もう一つある」
「もう一つ」
「それは、俺の口から先に言うことじゃない」
白石は言葉を切った。
「自分でぶつかって、あの人の口から聞け。そのほうが、お前には効く」
走はその夜、遅くまでノートを開いていた。
白石の言った「もう一つ」を、走なりに数えてみた。
考えられるのは、いくつかある。
身体が小さい。これはある。一五三センチの右サイドバックは、この年代では小さい。クロスに競れない。ロングボールを跳ね返せない。
声が出ない。これもある。走は試合中、ほとんど喋らない。喋らないぶん、位置で伝えているつもりだが、それは伝わっていないかもしれない。
攻撃で結果がない。これも事実だ。去年、走はアシストの一つもつけていない。
どれも本当だ。どれも、外す理由になる。
だが走には、どれも「もう一つ」の正体ではない気がした。
白石は「自分でぶつかって聞け」と言った。あの言い方は、走が知らないことを指している。走が自分で数えられる欠点なら、白石はそのまま口に出したはずだ。
次の日の練習後、走は鬼塚のところへ行った。
用具の片付けをしている選手たちから離れて、鬼塚はグラウンドの端で一人、ボードに何か書き込んでいた。
十メートル手前で、走の脚が一度止まった。
聞けば、答えが返ってくる。返ってきた答えは、たぶん、走のいちばん柔らかいところに当たる。
前の生で、走は一度も聞かなかった。
玄関で「お前はもう十分やった」と言われたとき、走はなぜ、とは言わなかった。理由を聞けば理由が返ってくると分かっていて、返ってきたものを受け取る覚悟がなかった。そのまま四十年、聞かずに終わった。
走は息を吸って、三メートル手前まで行って、頭を下げた。
「監督。少し、よろしいですか」
鬼塚は手を止めなかった。ペンを動かしたまま、こちらを見もせずに言った。
「なんだ」
「なぜ、俺は外されたんですか」
ペンが止まった。
鬼塚が顔を上げた。
その眼が走を、上から下まで一度だけ通った。査定の眼だ。走はセレクションでも、去年の三月の実戦でも、同じ眼を浴びている。
「聞きに来たか」
「はい」
「聞いてどうする」
「直せるものなら、直します」
鬼塚はボードを脇に挟んで、走に向き直った。
その動作だけで、走の身体が固くなった。
「東。お前、試合の入りが遅い」
走は、その一文の意味をすぐには掴めなかった。
「……入り」
「前半だ。お前は前半、走らん」
走の中で、何かが引っかかった。
「走っています」
「走っとらん」
鬼塚は断定した。
「去年の紅白戦、お前を何度も見た。後半はよう動く。だが前半は違う。相手が来るまで待っとる。奪いに行かん。競り合いにも入らん。……あれは、力を残しとるんだろう」
「はい」
走は、そこで初めて頷いた。
残している。事実だからだ。
鬼塚の眉が、一度だけ動いた。
「認めるのか」
「認めます。ただ、手を抜いているわけではありません」
「同じことだ」
「違います」
走は言った。
言ってから、自分の声が思ったより固いことに気づいた。腹の底が熱い。反論している。この人に。
「前半も、俺は全力で動いています。ただ、無駄を出していないだけです。無駄な加速をしない。無駄な急停止をしない。だから外から見ると、動いていないように見えます」
「屁理屈だな」
「数字があります」
鬼塚の眼が、細くなった。
「去年の八十分で、俺の総走行距離は右の先輩より一・二キロ多いです」走は続けた。「後半四十分の走行距離は、前半とほとんど同じです。落ちていません。チームで俺だけです」
「誰が測った」
「マネージャーの眞鍋です。去年からの分を、全部表にしています」
鬼塚はしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「数字は見た」
走は呼吸が浅くなった。
「白石が持ってきた。去年の秋にな」
鬼塚はボードを持ち直した。
「その上で、外した」
「……なぜですか」
「東。俺はな、八十分落ちん選手が欲しいんじゃない」
鬼塚は言った。
「最初の十分で流れを決められる選手が欲しい。うちが勝つのは、たいてい前半で相手を折ったときだ。後半に追いつく試合は、追いつく前に折れる。それが二十年やった俺の答えだ」
走は、そこでようやく理解した。
この人は、走の数字を見ていないのではない。
見たうえで、要らないと言っている。
「お前の走り方は、勝ち方が違う」鬼塚は続けた。「間違っとるとは言わん。だが、うちの勝ち方じゃない」
「……分かりました」
「分かってない顔だな」
「分かりました。そのうえで、覆します」
鬼塚はもう一度、走を見た。
今度は、少し長かった。
「そうか」
それだけ言って、鬼塚は歩いていった。
振り返らなかった。
走はその場に立ったまま、自分の心臓が速いのに気づいた。
聞いた。ぶつかった。返ってきたものは、走がいちばん触られたくない場所に、正確に当たっていた。
それでも、立っていた。
前の生では、ここまで来なかった。
走はいま聞いたことを、頭の中で並べ直した。
白石は「時間軸が違う」と言った。あの人の見立ては半分正しかった。
だが本当の壁は、時間軸ではなかった。
鬼塚は走の数字を知っている。知っていて、その数字が指す勝ち方そのものを採らないと決めている。
好みの問題ではない。二十年ぶんの経験でそう結論した人の、その結論の上に、走は立っている。
(――説明では、動かない)
数字を見せた。見ていた。それでも外された。
だとしたら、残っている手は一つしかない。
走の勝ち方で、この人に勝ちを一つ持ってくることだ。
それ以外の言葉は、この人には届かない。




