第61話 数える眼
右を外された週の、その次の週だった。走はタブレットを持った子に呼び止められた。
「東さん」
振り返ると、小柄な女子が立っていた。学年は一つ下だ。この春から入った学生マネージャーだと、走は知っていた。名前までは知らなかった。
「眞鍋 蛍です。マネージャーの」
「……はい」
「これ、見てください」
眞鍋はいきなりタブレットを走の顔の前に突き出した。挨拶も、前置きもなかった。
画面には、折れ線が二本引いてあった。
「去年の、東さんの走行データです」
「……走行データ」
「GPSベストの。データ自体は、前からクラブのパソコンに溜まってるんです。誰も開かないだけで。私が四月に、去年の分を全部出して、表にしました」
眞鍋は画面を指さした。
「これが前半四十分の走行距離。これが後半」
走はその二本を見た。
二本はほとんど重なっていた。前半と後半で、走の走った距離がほぼ同じだということだ。
「他の人のも見ますか」
眞鍋は指を滑らせた。
別の折れ線が出た。今度は二本が離れている。後半の線が、前半より明らかに低い。
「これ、右の先輩です。三年の」
走は黙って見ていた。
「後半で八パーセント落ちてます。これは普通です。みんな落ちます」眞鍋は淡々と言った。「落ちてないの、チームで東さんだけなんです。八十分の総距離も、右の先輩より一・二キロ多い」
走は、その二本の線から目を離せなかった。
去年の四十分を、走はずっと一人で数えていた。前半に何を捨てて、後半に何を残したか。ノートにだけ書いて、誰にも言わなかった。誰にも見えていないと思っていた。
見えていた。
走が黙っていたあいだ、機械のほうが勝手に、全部を記録していた。
「……残ってたんですね」
「残ってます。消してませんから」
眞鍋が顔を上げた。
「それに、これ、異常値なんですよ」
走は少し驚いた。
この子は、いま自分が何を持っているかを、正確に分かっている。
「なんで、取ってるんですか」
「面白いからです」
眞鍋は当たり前のように答えた。
「みんな、走ってる人が偉いと思ってるじゃないですか。でも数字を見ると違うんです。たくさん走ってる人が勝ってるわけじゃない。落ちない人が勝ってる。私はそれを証明したいんです」
走はその言い方に、覚えのある匂いを感じた。
この子は、勝ちたいのではない。正しいかどうかを確かめたいのだ。
六十八年、走の周りにはそういう人間が何人かいた。だいたい、あまり出世しなかった。
「東さん、なんで落ちないんですか」
「……設計してるからです」
「設計」
「前半に無駄を使わない。相手が加速する場所へ先に立って、こちらは急がない。あとは、飯と睡眠です」
眞鍋はタブレットを抱え直して、少しのあいだ黙った。
それから、思ってもみない反応をした。
「その説明、誰かにしましたか」
「いえ」
「しないでください」
走は顔を上げた。
「いま説明しても、たぶん誰も信じません」眞鍋は言った。「言葉で言うと、走らない理由に聞こえるので」
走は、その一言に一瞬、息を止めた。
この子はいま、走がこの一年ずっと感じてきたことを、二秒で言語化した。
「数字なら、信じます」眞鍋は続けた。「人は、言われたことは疑いますけど、表になってると疑わないので」
「……そうですね」
「だから、貯めます」
眞鍋はタブレットを胸に抱えた。
「使えると思うんです。いつか」
いつか。
走はその頼りない言葉を、なぜか手放さずに握った。
去年の夏、走はノートに一行書いた。見える形にするしかない、と。
そして、その下に書いた。
――数える眼は、もう一つある。
あのとき走が思い浮かべたのは、海だった。
もう一つ、あった。
海は盤面を数える。この子は、時間を数える。
どちらも、走の眼が届かない場所を数えている。
「眞鍋さん」走は言った。
「はい」
「今年も、俺のぶんを取ってもらえますか」
眞鍋はきょとんとした顔をした。
「取りますよ。全員分なので」
「俺、いま試合に出ていません」
「知ってます」
眞鍋はあっさり言った。
「練習も取ってます。試合より練習のほうが本数あるので、正直そっちのほうが面白いです。東さん、練習だと後半どころか三本目からみんなと差がつくんで」
「……それは、いい話ですか」
「私にはいい話です」
走は笑った。
「笑いました?」
「笑った」
「どうぞ」眞鍋はタブレットを下ろした。「私、貯めるのは得意なんで」
その夜、寮の部屋でスマホが震えた。母からだった。
『新学期どう? ちゃんと食べてる?』
『食べてる。先週、右から外れた』
打ってから、送るかどうか迷った。心配をかけるだけだ。
迷って、去年の夏を思い出した。背番号をもらった日、走は意味のない二桁の数字を、意味が分からない相手にわざわざ送った。送ったら、そのうち合うでしょ、と返ってきた。
この人は、何も奪わない。見えていても言わない。伸びしろに蓋をしない。
奪わない人には、隠さなくていい。
走は送った。それから、続けてもう一通打った。
『悔しい』
返事は、すぐに来た。
『そう。悔しいね』
少し間があって、もう一通来た。
『でも、あんたの脚は、まだ止まってないよ』
走は天井を見上げた。
まだ止まっていない。
前の生で確かめられなかったその一点に、いまは手が届くところにいる。ベンチの端からでも、脚はまだ動く。
翌朝、走はいつもの時間に起きて、自転車を回した。
(覆す。頼み込んで、じゃない)
名前を呼ばれるのを待つ側で、終わるつもりはなかった。
呼ばせる。
勝利以外を信じないこの監督の眼の前で、外せない一枚に自分でなる。
そのためには、まず、あの人が何を見ているかを知る必要があった。




