第60話 呼ばれなかった名前
右サイドバックの欄に、自分の名前はなかった。
書かれていたのは、中三の先輩の名だった。
走は、その二文字をしばらく見ていた。読み違えたのだと思った。もう一度、上から順に読んだ。中三の名だった。
自分の名は控えの欄にあった。
ずっと下のほう。交代要員の、さらに後ろ。
視界の端が、すっと冷えた。
冷えたあとで、熱が来た。
なんでだ、と思った。
思った瞬間に、腹の底から一気に上がってきた。
紅白戦で、走は何度もあの人の内側を通した。競って、押し負けたことがない。同じ側に立った日は、全部走が数えている。数えたぶんだけ、自分が選ばれると思っていた。
なんで、あっちなんだ。
走は自分の右手が握られているのに気づいた。開くのに、少し時間がかかった。
ボードから離れたとき、隣に立っていた海が、名簿ではなく走の横顔を見ていることに気づいた。
この男は盤面を読むように、人の顔も読む。
海は何も言わず、ただ低く、こう置いた。
「その計算は、まだ途中だろ」
途中。
走が一年、口の中で転がし続けてきた言葉を、海はさらりと拾って返した。
走は返事をしなかった。
できなかった。いま口を開いたら、途中じゃない、と言いそうだった。
鬼塚剛造がグラウンドに出てきた。
ジュニアユースの監督。強豪を何度も全国へ導いた名将で、六十を過ぎてなお背筋が鉄棒のようにまっすぐな男だ。
選手の輪が自然に割れて、道をつくる。
走はその前に半歩、進み出た。
理由を訊くつもりはなかった、と自分では思っていた。だが身体のほうは、明らかに前へ出ていた。視界に入りたかった。去年の秋、岳を本気にさせたのは自分だと、その事実を眼で伝えたかった。
鬼塚の視線が、走をかすめた。
止まらなかった。
通り過ぎざま、監督は誰にともなく、低く言った。
「小手先で一年、よう保ったな」
それだけだった。
走の設計。燃料切れの戦術。海との連携。この一年で積み上げてきた全部を、鬼塚はひと言で片づけて歩いていった。
小手先。
悪意はなかった。むしろ淡々としていて、淡々としているぶん、走の芯を深く抉った。
ただ一度だけ、鬼塚は歩きながら、走の脚の運びを横目で追った。ほんの一瞬で、すぐに前へ戻した。
走は気づかなかった。
気づく余裕が、なかった。
言い返す言葉なら、いくらでもあった。
小手先ではない。合宿の四日目に、二十人のうち落ちなかったのは二人だけだった。新人戦の三回戦で、六点取っている九番を八十分止めた。十二月に、この学年の誰もできなかったことをやった。全部、数えて積んだものだ。
どれも、この人は見ていない。
見ていない人に、見ていないと言っても仕方がない。
仕方がないと分かっているのに、口の中がずっと熱かった。
膝の裏が、ふいに冷たくなった。
これを知っている。
この冷たさを、走は前の生で一度だけ味わっている。
県大会に手が届く年代だった。まだ脚は伸びる途中で、走れば走るほど身体が応えてくれた季節。
その最中に、監督ではなく父が、こう言った。
お前はもう十分やった。
試合を一つ下げられたのではない。ピッチそのものから、下ろされた。机に向かえと。
十分。誰が決めた。
伸びしろはまだそこにあったのに、確かめる前に蓋をされた。自分がどこまで走れる男だったのか、それを一生知らないまま、六十八年を生きて死んだ。
(あのとき俺は、抗わなかった)
傷は、二枚重ねだった。
奪われた恨みが一枚。そしてもう一枚、奪われるだけの態度を自分がとっていたという、自分への恨み。
父だけを憎めれば楽だった。それができないから、この痛みは一生ほどけない。
だが今は、止める父はいない。
走はボードの自分の名前を、控えの欄のその文字を、まっすぐ見た。
初戦は、六対〇で勝った。
走は最後の八分だけ出た。
八分で、走にできることは何もなかった。相手はもう勝負を捨てていて、こちらも点を取りにいっていない。走が右で相手を詰まらせても、詰まらせる相手がそもそも来ない。
八分間、走は一度も全力で走らなかった。
走る場面がなかったからだ。
ベンチへ戻ったとき、鬼塚は走のほうを見ていなかった。
試合のあと、走はグラウンドの隅に残って、ボールを蹴っていた。
誰もいなかった。日が落ちて、照明が二本だけついている。
壁に当てて、返ってきたのを止めて、また当てる。
高山でやっていたのと同じことだ。あの空き地には壁がなくて、走は納屋の板に当てていた。板の同じ場所だけが、六年かけて白くなった。
三度目に、走は思いきり蹴った。
跳ね返りが顔の横を抜けて、フェンスに当たって、大きな音を立てた。
誰も来なかった。誰も見ていなかった。
走はもう一度、同じ強さで蹴った。
蹴ってから、息を整えて、ボールを止めた。
走は自分の手を見た。
去年より大きい。あと二年ぶん、まだ伸びる。
(――間に合うのか)
二月の夜、ノートに同じことを書いた。あのときは、あの肩に入れるかどうかの話だった。
今日は、意味が変わっている。
去年、走は「あと二年」と書いた。二年待つと決めた。決めたときは、待てば手に入ると思っていた。
待っているあいだに、席が埋まる。
その可能性を、走は勘定に入れていなかった。
二年後に最高の身体を持っていても、そのときピッチに立っていなければ、誰もそれを見ない。
走はボールを止めて、しばらく持っていた。
持ちながら、一つだけ、消えていないものを数えた。
次はユースで待ってる、と言った人がいる。あの人は今日の名簿を知らない。知らないまま、上で待っている。
海は「まだ途中だろ」と言った。財前は五メートル寄ってくれる。江口は、東くんのほうが上手いと言った。
今日、走の名前は右サイドバックの欄になかった。
それだけが、起きたことだった。
照明が一本、消えた。




