第59話 空いた席
四月になって、寮に新しい一年が入ってきた。
二〇三号室は三人になった。窓際のもう一人が、寮を出たからだ。二年になるのを機に、名古屋の親戚の家から通うことにしたのだという。かわりに新しい一年が入る予定だったが、その子は寮に入らなかった。
黒木岳は、いない。
三月の終わりにユースへ上がっていった。
尾張のジュニアユースから上がれるのは、三十人のうち五人から多くて十人。その年は七人だった。岳の名前は、上から二番目にあった。
あの背中はもう、このグラウンドの右サイドを踏まない。
四月の最初の練習で、走はそれを身体で理解した。
右サイドを見ても、誰もいない。
一年間、走はあの位置を見て過ごした。紅白戦のたび、ミニゲームのたび、走はあの人の前に立たされた。抜かれて、戻って、また立った。毎日それをやっていると、いつのまにか、一日の中にその時間があることが当たり前になる。
今日、その時間がなかった。
寂しい、という言葉が出てきて、走は少し驚いた。
嫌いだったわけではない。だが、好きだとも思っていなかった。あの人は走の壁で、走が超えるべき対象で、それ以上のものではなかったはずだ。
次はユースで待ってる、と言った声が、まだ耳の奥に残っている。走はそれを、追いつくための約束として受け取っていた。
受け取ったのに、渡す相手が、今日はもうここにいない。
朝、食堂で走は自分より小さい背中をいくつか見た。
去年の自分と同じ顔をしていた。誰も知らない場所に来て、誰も自分を知らないことに気づいたばかりの顔だ。列の端に座って、何も言わずに食べている。
走は自分のトレーを持って、その隣に座った。
座ってから、去年の四月のことを思い出した。
走はあの日、端の席で献立を見ていた。鉄が薄い、と思って、誰にも言えないと気づいた。隣に誰も座らなかった。座らなかったことを、走は寂しいとは思わなかった。
思わなかったのは、たぶん、六十八年ぶんの分別があったからだ。
この子には、それがない。
「東です。二年」
「……あ、はい」
それだけで、その子は身体を固くした。走は何も言わずに食べた。
二日目も、三日目も、同じ席に座った。四日目に、その子のほうから「おはようございます」と言った。
それでよかった。
去年、走に一日目から声をかけたのは江口だった。段ボール四つの話をした男だ。あの軽さが、走にはできない。走にできるのは、隣に座って、黙って四日待つことだけだった。
右サイドバックの席が、空いていた。
(……俺の場所だ)
走はそう思った。
思ってから、取り消さなかった。
驕りではない、と自分に言い聞かせる必要も、感じなかった。走は一年かけて岳を追い、最後の一戦でボールに触れた。査定の眼を持つ白石は、去年の秋にたしかに走を見ていた。設計は積み上がっているし、海の盤面と噛み合う手応えもある。
順番からいって、次に右を任されるのは自分だ。
欲しい、と走は思った。
欲しがったこと自体は、初めてではない。六月、ウェイト場の入口で、走は五分立って、やりたいと思った。夏には、俺も呼ばれたかったと思った。
どちらも、胸の中で終わった。
今年は、口に出す気がある。あの席は自分のものだ、と。
身体も、動いていた。
四月の身体測定で、一五三センチ、四四キロ。
去年の四月から五センチ、四キロ。九ヶ月動かなかった数字が、この冬の三ヶ月で全部動いた。
走は測定用紙を見ながら、少しだけ息を吐いた。
まだ小さい。同学年の平均には届いていない。財前は一六五を超えたし、レオはもっと高い。
それでも、去年とは違う。
去年の走は、接触のたびに外へ流れた。いまは、残る回数が増えている。四月の紅白戦で、走は財前と二度競って、一度は残った。
一度だけだ。
だが去年は、ゼロだった。
「東。今年、右やるの」
着替えのときに、江口が聞いた。
「分からない」
「やるっしょ。他にいないじゃん」
「三年がいる」
「あー、あの人か」江口は少し考えて、それから肩をすくめた。「まあ、東くんのほうが上手いと思うけど」
「……思う」
「え?」
「俺も、そう思う」
江口が目を丸くして、それから笑った。
「うっわ。東くん、そういうこと言うんだ」
「言った」
「言ったな。おれ覚えとくわ」
走は何も言い返さなかった。言い返す必要を、感じなかった。
右サイドバックの三年は、堅実な選手だった。大きなミスはしない。
去年、走は紅白戦で、その人を何度も内側で追い越していった。同じ側に立った日に、走が後手に回ったことは一度もない。
走が数えているのは、そこまでだった。
四月の第二週に、新シーズンの初戦が組まれた。
外部の高校生年代を招いた実戦形式だという。中二と中三が混ざる。中一は基本的に外れる。
前の晩、走は自転車を回さなかった。
朝の練習に、いちばんいい状態で入りたかったからだ。回復を優先する判断は、走にとって珍しくない。だがこの日は、判断というより、少し落ち着かなかった。
寝る前にノートを開いて、いつもの三行を書いた。
量。眠る予定。明日へ残る疲労。
その下に、走は一行だけ足した。
――明日、右に入りたい。
書いてから、しばらく見ていた。
消さなかった。
走が自分の欲を、紙に書いたのは初めてだった。
翌朝、ボードにメンバー表が貼られた。
走は輪の後ろから、それを覗きに行った。
軽い気持ちではなかった。




